2007年8月21日

音羽町の夏休み

名古屋のホテルを朝10時に出たのですが、
お盆の混雑で丁度いい時間の列車は席が取れず、
東京行きの新幹線を夕方まで待たねばなりません。
そこで、旧東海道の赤坂宿のことを急に思い出し、
遠回りしながら向かうことにしました。

赤坂宿は愛知県宝飯郡音羽町にあります。
江戸時代は隣の御油宿とともに大変賑わったそうですが、
明治に入り、新時代の東海道たる東海道本線が通ることを拒んだため、
その後はすっかり寂れてしまったそうです。

後で「しまった」と思ったのでしょうか。
東海道本線が通らなかった音羽町には名鉄名古屋本線が通り、
赤坂宿の近くに名電赤坂駅ができました。
しかし、時既に遅し。止まるのは30分に1本の各駅停車のみ。
現在の赤坂は、農地が広がる小さな集落です。

IMG_2277a.jpg

思いつきで来たので何の予備知識もありません。
とりあえず、駅前の地図で道順を確かめ、音羽郵便局へ向かいます。
国道を横切り、小さな川を渡ると、
家々の玄関先には迎え火を焚いた跡があります。
きっと仏間には、きゅうりの馬となすの牛、それに岐阜提灯もあることでしょう。

涼しい郵便局の中で友人宛に手紙を書き、風景印を押してもらいます。
音羽郵便局の前を通る道が、どうやら旧東海道のようなので、
少しだけ歩いてみることにしました。
必ずしも江戸時代の物ではないのでしょうが、点在する古い建物を見つつ進むと、
大橋屋の前まで来ました。
ここは東海道筋で唯一、現在も泊まれる旅籠屋です。

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さて、大橋屋も見たし、暑いし、そろそろ駅の方へ戻りましょうか。
さっき渡った小さな川に沿って細い道があります。
蝉時雨に吸い込まれるようにその道へ進むと、脇に1本の木があり、
ふと見ればたくさんの蝉が留まっています。
私が近付くと、その中の何匹かが飛び去り、
足元を見れば、もうすぐ天寿を全うする蝉が1匹もがいています。
私はその時初めて、そのあまりに当たり前のはずの蝉時雨が、
実は数年ぶりに聞くものであることに気付きました。

そこには昭和50年代の夏休みがありました。
あの頃は真夏でもここまで暑くなかった気がしますが、
強い日差しの中、蝉時雨を聞き、畑に並ぶ里芋の葉を眺めながら歩くと、
明確な夏休みの無い今の私も、すっかり夏休み気分です。

自由研究の題材は赤坂宿に決めて、畑の中の小さな駅へ戻りました。

10:43 | カテゴリー:街への思い

2006年1月28日

新宿の青い木

JR新宿駅西口から西へ、高層ビル街に向かって伸びる地下道を歩くと、
階段も坂も無いのにいきなり地上に出ます。
ここから階段を上がり、高層ビルの間を抜けてさらに階段を上がると、
またしても地上。
40年余り前、ここにあった淀橋浄水場では、
エッシャーの絵のように水がぐるぐると回り続けていたに違いありません。

近年、どうも都会の喧噪を生理的に受け付けなくなり、
特定のお店に行く時以外は新宿駅周辺を歩くこともなくなりました。
しかし、昨日は電車の待ち時間がかなりあり、
遅い時間でいつものお店が閉まっていたので、
久し振りに歩いてみることにしました。

明るい地下道が突然終わると、
暗い夜空から無数の四角い明かりが視野に飛び込んで来ます。
「住友ビルってこんなに小さかったっけ」
まさか、大人になったから小さく見えるわけでもないでしょう。

三井ビル前の広場の木は、青く光っていました。
どうしても好きになれなかったはずの、街路樹に巻き付けられた電飾に、
新宿駅から歩いて来た後に出会うと、なぜかほっとしました。

どうしようもなく気忙しい大都会にも、確かに心が休まる空間があり、
一見無駄のような電飾も、確かに人の心を癒し、
そして、大都会も電飾も鬱陶しい物と決めつけていた私にも、
確かな皮膚感覚が残っていたようで‥‥

ほんの少しだけ、私の新宿の地図が広くなったような気がします。

23:08 | カテゴリー:街への思い

2005年12月23日

豊橋で道に迷う

愛・地球博の最終日が近付いた9月23日、
万博会場を出たのは夜9時頃だったでしょうか。
万博八草駅行きのバスになかなか乗れず、
金山駅に着いた時には、もう名鉄の豊橋行きはありませんでした。
JRの豊橋行きはあと2本。11時の新快速で豊橋に向かいました。
豊橋駅に着き、持参した地図を確認。
大体の見当でホテルを目指したら道に迷ってしまいました。

翌朝はまず豊橋公園の近くまで散歩。
市役所前から豊橋鉄道の電車で豊橋駅まで行きました。
一日名古屋で遊んで豊橋に戻り、今度こそまっすぐホテルを目指すと‥‥
何とそこは、祖母の家を通り過ぎてすぐの所でした。

豊橋市は愛知県南東部、静岡県との県境にあります。
名古屋からはJR東海か名古屋鉄道の電車で1時間ほどです。
私の母は豊橋市出身で、里帰り出産により私も豊橋で生まれました。
愛知県の宿がどこも万博で混雑する中、
たまたま豊橋に空いている宿があってこの日はここへ来たのですが、
せっかくなので買い物ついでに私が生まれた病院を見に行くことにしました。

驚いた事に、私が生まれた病院は墓地に‥‥

はて?
5月に豊橋へ来た時にはまだ病院は残っていました。
その跡地にたった4ヶ月でこれだけの墓地が展開されるはずはありません。
近くを歩き回ってみたのですが、結局見つかりませんでした。

次の日、ホテルをチェックアウトして、祖母の家の前を通りました。
前日の夜には無かったプランターボックスが家の前にあり、
鮮やかな赤や黄色の花が咲いていました。
朝の雑用を終えて、祖母はお茶でも飲んでいるのでしょうか。
ちょっと声を掛けて行きたいな‥‥と思いましたが、
そのまま豊橋駅へ向かいました。

後で母に聞いたら、私は病院のある場所を勘違いしていたようです。
やっぱりね。今度また見に行ってみましょう。
その時祖母の家の前を通ったら‥‥今度はどうしようかな。

23:50 | カテゴリー:街への思い

2005年12月17日

函館で鬱を忘れる

クリスマスの3連休、久し振りに函館に行こうと唐突に思ったのですが、
丁度「クリスマスファンタジー」というイベントがあって混んでいるようです。
宿も交通機関も予約で出遅れてしまったので、今回はやめておきます。

‥‥というのは建前かもしれません。
どういうわけか函館は、辛い時の逃げ場なのです。

2000年夏、職場でのストレスに押し潰されそうだった私は、
唐突に函館行きを思い付きました。
本当はのんびりするつもりで出掛けたのに、
限られた時間で可能な限りの見所を巡るという慌ただしい観光に
なぜかゲームのような快感を覚えました。

そして2000年暮れ、もっとストレスに押し潰されそうになった私は、
今度こそボーッとするつもりで函館へ行きました。
連泊なのだから一日中ホテルにいても良かったのですが、
やっぱり今回も市内を歩き続けました。
人一倍寒がりなのに、粉雪のちらつく夜までも散歩に出掛けました。

2002年春、転職してパソコンメーカーに派遣されていた私は、
休日は「別の仕事」に首を突っ込んでいました。
ゴールデンウイークに「別の仕事」の一大イベントが予定されていたので、
その準備を進めていると、パソコンメーカーから休日出勤の要請。
泣く泣く出勤したら、ずぼらな私が過労で倒れました。
すぐに体調は回復したのですが、何だかばかばかしくなって、
休日出勤をすっぽかして函館へ行きました。
病み上がりなのにいつもより元気に観光していたのは内緒です。

2002年秋、私はまだ仕事を二股かけていました。
そのおかげで、昼も夜も、平日も休日もパソコンから離れられません。
そんな生活が嫌になり、いろいろな事を考えながら、
標高334mの函館山の頂上まで歩いて上りました。
気が滅入っていたはずなのに、どこにそんな気力があったのでしょう?

私の本名は、函館周辺に多い苗字です。
実際、我が家の先祖は函館に住んでいたそうです。
今は身内は住んでいないものの、私にとって縁浅からぬ土地ですから、
何となく波長が合うのかもしれません。
元来ものぐさな私が、函館では自分でも別人かと思う程の行動力を発揮します。
しかも、行くのは決まって鬱の時。

今回函館行きを取りやめたのは、まだまだそこまで疲れていないからでしょうか。
いくら混んでいても、宿も交通機関もその気になれば何とかなるものです。
もう少し頑張ってみましょうか。

クリスマスの3連休は予定が無くなってしまったので、
友人をデートに誘ってみました。
新宿駅で見かけた東京ディズニーシーの広告に
「誰の心も溶かしてしまう奇跡が起きるらしい」と書いてあったので、
「本当かどうか一緒に確かめに行こう」なんて言ってみたのですが、
断られてしまいました。
あーあ、やっぱり函館へ行こうかな。

00:40 | カテゴリー:街への思い