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2009年9月10日

【十四】富士が見えればそれで吉原 其の五

旧東海道は県道396号に右から合流したと思ったら、すぐ左折して離れます。

旧東海道はここを左折
旧東海道はここを左折

ここから狭い道になります。

県道396号から離れた旧東海道
県道396号から離れた旧東海道

この先に江戸から35里(137.5km)の一里塚跡があるのですが見落としました。

県道から細い道に入って450m、旧東海道は富士本町商店街と交差します。

富士本町商店街
富士本町商店街。画面奥が富士駅方面。
画面左が吉原宿方面、右がこれから向かう蒲原方面。

この交差点を左折し、500m程行くと富士駅です。
隣の吉原駅は1889年(明治22年)、
国府津-静岡間の鉄道(現・東海道本線)開通と同時の開業でしたが、
富士駅は20年遅れて1909年(明治42年)に開業しました。
当時この辺りの地名は富士郡加島村で、
地元からは加島駅とするよう求められていたようですが、
開業時から富士駅とされました。
加島村は1929年に町制を施行して富士町になり、
さらに数回の合併を経て現在の富士市の一部になっています。
富士駅も吉原駅同様貨物列車の発着があり、発送品の半分は紙製品です。

商店街から200m、金正寺の裏の墓地越しに富士山が見えました。
まだまだ富士山は近くに見えます。

金正寺の裏から見る富士山
金正寺の裏から見る富士山

金正寺の墓地の隣はフジホワイトホテルです。
ここは静岡県有数の大地主、松永家の邸宅跡です。

フジホワイトホテル
フジホワイトホテル

江戸時代末期には、周辺六箇村の年貢をとりまとめる業務を
領主に代わってこの松永家が行っていました。
ここは間の宿岩淵と吉原宿の中間に位置し、
明治元年の明治天皇東幸の際には松永邸が小休所として使われました。
当時の建物の一部は富士市立博物館で保存されています。
また、このすぐ先には高札場跡があり、
「札の辻橋」という橋の名に今も名残を留めています。

フジホワイトホテルから800mの所で旧東海道は県道396号に合流します。

県道396号に合流
県道396号に合流

すぐ先に見えるガードは身延線です。

身延線のガード
身延線のガード

身延線は富士駅から山梨県の甲府駅へ延びるJR東海の路線です。
もともとは富士身延鉄道という私鉄の路線で、
1913年に富士-大宮町(現・富士宮)間が開通。
その後順次延伸され、1928年に甲府までの全線が開通しました。
1938年に鉄道省(後の国鉄)に借り上げられ、
1941年には買収されて鉄道省の路線になりました。

以前は身延線の列車は富士駅から東向きに出発し、
ここよりもっと手前、富士郵便局の近くで県道396号と交差していました。
それが1969年のルート変更で西向きに出発するように変わり、
現在の位置で県道396号と交差するように変わりました。
その理由は、東京方面(即ち東側)から来た創価学会のチャーター列車が
向きを変えずにそのまま身延線に入り富士宮まで行けるようにするためだった、
という説があるそうですが、真偽の程は定かではありません。
身延線は当時から静岡方面(西側)との直通列車が毎日走っていたのですから、
東側から来る臨時列車に合わせて線路を直すのも不自然な気がします。

身延線が県道396号を跨ぐ所には柚木駅があります。
柚木駅の所から北の方を見たら、また富士山が見えました。

柚木駅の所から見た富士山
柚木駅の所から見た富士山

柚木駅から150m、橋下(はしした)交差点で県道176号が右へ分岐します。
さらに150m先の交差点で細い道が右へ分岐します。
この細い道が旧東海道です。

旧東海道分岐点
旧東海道分岐点

ここに常夜灯と道標があります。

常夜灯と道標
常夜灯と道標

沼津宿の手前、清水町に常夜灯があり、
その時「この先しばらく同様の常夜灯が数多く見られる」と言いました。
面倒なのでいちいち話題にしなかったのですが、
覚えているだけでも富士市に入ってこれが4つ目くらいです。
残念なことに火袋の部分が失われており、灯籠の用を為しません。
(もっとも用を為しても実際に使うことがあるかはわかりませんが)
竿の部分には「秋葉山」と刻まれていますが、
富士市内で見た物はだいたいそう書かれているようです。
また、「慶應元年 五月吉日」とも書かれています。
慶應元年と言えば明治維新の3年前です。
既に徒歩による旅行も末期のように感じられますが、
この地に鉄道が来るのは24年後の明治22年(1889年)です。
明治時代の前半はまだまだ近世から近代への移行期ですね。

隣の道標には「左東海道」と刻まれています。
ただし、この道標は道路整備の際に本来の場所からここに移動されており、
実際は右の道が旧東海道です。
(元はどこにあったのでしょう)

ここから暫くは特に何もない道です。
県道から離れて車の通りも少なく、のんびりした気分で歩けます。

県道から離れてのどかな道
県道から離れてのどかな道

常夜灯と道標があった場所から400m余り、また県道396号に戻ります。

県道396号に戻る
県道396号に戻る

横断歩道に取り付けられた標識に静岡36km、富士川3kmとあります。

県道を450mくらい進むと明治天皇御小休所址の碑があります。

明治天皇御小休所址碑
明治天皇御小休所址碑

解説によると、明治天皇は明治11年11月6日、
東海北陸巡幸の際にここで休憩したそうです。
当日に備えて様々な準備が行われ、
「富士川橋梁の架替」も行われたと記されています。
明治に入ると富士川にも仮橋が架けられますが、
富士川は東海道随一の急流であり、雨期には流されてしまい、
従来からの渡船と併用されていました。
長持ちしない仮の橋なら真っ新な橋でお迎えしようということでしょう。

100m先にはもう富士川橋が見えていますが、
明治天皇の石碑のすぐ先に左へ入る細い道があります。
私が持ち歩いているガイドブックの地図では、
この道の先にかつての船着き場があったように描かれています。
河川敷へ下りられそうなのでちょっと行ってみましょう。

富士川橋
富士川橋

富士川橋が見えます。この写真では東側1連が見えていませんが、
下路曲弦プラットトラス6連の堂々たる鉄橋です。
それまでの仮橋に替わって1924年に架けられました。
西側2連の桁は東側4連に比べ幅が広くなっています。
元は同じ幅だったのですが、この橋を西へ渡った先がすぐ交差点なので、
桁の幅を広くして橋の上に右折レーンを設けたのだそうです。
この幅が広い部分の桁は1988年に架け替えられた物です。
戦後のトラス橋は桁の上部が路面と平行の平行弦トラスが多いのですが、
富士川橋の架け替え部分は大正時代の部分に合わせたのか曲弦トラスです。

さて、ガイドブックの地図を信じるならこの辺りに渡船場があったことになります。

富士川橋の袂、水神ノ森にある神社の解説板によれば、富士川東岸の渡船場は
上船居、中船居、下船居の3箇所を川瀬の状況により使い分けていたそうです。
3つの渡船場は「松岡地内の一番出しから川下二十町の間」にあり、
それぞれの渡船場へは上、中、下の各往還が通じていたといいます。
下船居は水神ノ森付近にあったそうですから、
今歩いて来た道は下往還ということになります。
ガイドブックの地図は一応間違っていないみたいですが、
上往還と中往還については記述がありません。

また「松岡地内の一番出し」がどこなのか不明ですが、20町は約2.2kmです。
後でこの付近の地図を見てみると、富士川橋から上流へ1kmと2kmの辺りへ
旧東海道からそれぞれ道筋が伸びているように見えます。
ただし、これが中往還と上往還なのかは未確認です。

それでは富士川橋を渡りましょう。

富士川橋東詰
富士川橋東詰

道の左側にある大きな柱は、1924年の富士川橋竣工時に立てられていた物です。
1988年に西側2連を架け替えた際に低い柱に替えられたようです。
上流側の脇に独立した歩道があるので自動車の通行が多くても安心して渡れます。

富士川橋からも富士山が見えました。

富士川橋から見た富士山
富士川橋から見た富士山

富士川の西は以前は庵原郡富士川町でしたが、
2008年11月1日に富士市に編入されました。
もともとは近年まで庵原郡に残っていた蒲原町、由比町との間で
合併交渉が行われていたのですが、
富士地区との繋がりが深い富士川町は富士市への編入を選びました。
余談ですが、山梨県南巨摩郡増穂町と鰍沢町が
2010年3月に合併して富士川町になるそうです。

次の宿場は蒲原ですが、その前に間の宿岩淵を通ります。

07:26 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年9月 9日

【十四】富士が見えればそれで吉原 其の四

前回は吉原商店街を最後まで通り抜けましたが、
今回は商店街終点の600m手前、静岡銀行の所を左に曲がります。
ここには目印となる木製の柱があります。

旧東海道が商店街から出る場所の目印
旧東海道が商店街から出る場所の目印

江戸34里、原宿3里、蒲原宿3里、京都90里と書かれています。
まだまだ先は長いですね。
商店街は広い道でしたが、
旧東海道はここから車道にセンターラインも無い狭い道になります。

吉原商店街を出た旧東海道
吉原商店街を出た旧東海道。県道の標識がある。

実は商店街の途中から歩いて来た県道22号もこの角を曲がります。
狭い道に入っても引き続き旧東海道が県道です。

140m先、2番目の角の所にお題目碑があります。

お題目碑
お題目碑

旧東海道はこの角を右に曲がります。県道22号も右です。
ちょうどお題目碑が目印になっています。
ここを曲がると旧東海道はしばらく道なりなのですが、
ちょっと寄り道をすることにして、最初の信号を左折します。
その先に吉原中央町郵便局があります。

吉原中央町郵便局
吉原中央町郵便局

吉原中央町郵便局の風景印
吉原中央町郵便局の風景印

吉原中央町郵便局の風景印は「左富士の松と田子浦港と東海道新幹線」です。
今回は年賀はがき(無地)を使用しました。

郵便局を出て旧東海道に戻ろうと元来た方向を見たら富士山が見えました。

吉原中央町郵便局の前から見た富士山
吉原中央町郵便局の前から見た富士山

お題目碑がある角を曲がってから450m、道が緩やかに左に曲がり、
小さな橋を渡る手前のこの場所が吉原宿西木戸跡です。

吉原宿西木戸跡
吉原宿西木戸跡

小さな橋の名は四軒(しけん)橋、下を流れるのは小潤井川です。
橋を渡るとすぐ旧東海道は国道139号に合流します。
吉原商店街から歩いて来た県道22号はここで終わりです。

国道139号に合流
国道139号に合流

国道139号はここ富士市から富士山の西を北上した後北側へ回り込み、
山梨県を抜けて東京の西の端、奥多摩町へ至る道です。
そう言えばこの道、左富士の手前でちょっとだけ歩きましたね。

旧東海道は、この国道合流点から約140mが
昭和40年代に行われた区画整理で失われています。
国道139号を進むとすぐに広い道と交差しますが、
その近くに旧東海道跡の碑があります。

旧東海道跡の碑
旧東海道跡の碑。大通りの向こうに旧東海道の続きが見えます。

旧東海道の碑の所から見ると、4車線の大通りの向こうに
大通りに対して斜めにぶつかっている道が見えます。
地図で見るとこの角度がちょうど県道22号の延長線と合致し、
旧東海道の続きであることがわかります。

国道139号の所まで戻って大通りを渡り、旧東海道の続きを歩きます。
振り返ったら富士山が見えました。

大通りを渡って旧東海道の続きへ
大通りを渡って旧東海道の続きへ。振り返ると富士山が見えました。

500m余り行くと高島交差点です。ここは東西方向の県道396号と
北西から南東方向の県道353号が交差する所に、
北東から旧東海道が来る五叉路です。
旧東海道はここを右へ行き、少しの間県道396号を進みます。

静岡県道396号富士由比線の起点は
高島交差点の東200m程の所にある青島交差点、
終点はこれから通る由比宿の先、東海道本線由比駅の辺りです。
この道もまた旧国道1号で、この先終点まで飛び飛びに歩くことになります。

県道396号を200mくらい行くと、潤井川を渡る橋が見えてきます。
旧東海道はこの橋を渡らず、右に曲がります。
ここは元吉原の手前、檜交差点にあった物と同じ
「旧東海道順路」の標識がありますが、小さいので見落としそうです。

潤井川を渡る橋の手前を右へ
潤井川を渡る橋の手前を右へ

続いて2つ先の角を左に曲がります。
ここも同じく「旧東海道順路」の標識があります。

2つ目の角を左へ
2つ目の角を左へ

そしてその先の富安橋で潤井川を渡ります。
吉原宿を出た所で渡った小潤井川はこの潤井川の支流です。

前方に富安橋
前方に富安橋

富安橋から約1km程の所に鶴芝の碑があります。
民家の玄関先にあるので、あんまりじろじろ見るのも悪いような気がします。
(そのくせここに写真を載せています)

鶴芝の碑
鶴芝の碑

かつてこの付近に本市場という間の宿がありました。
鶴芝の碑は文政3年(1820年)、本市場にあった鶴の茶屋に建てられたものです。
この碑によれば、ここから雪の富士を眺めると
中腹に一羽の鶴が舞っているように見えたといいます。
ちょっと見てみましょうか。

本市場から見る富士山
本市場から見る富士山

今日は鶴は見えないみたいです。

その先で中央分離帯のある広い道と交差するのですが、
横断歩道がないのでまっすぐ渡れません。
分離帯には「旧東海道跡地」と刻まれた柱があります。

迂回してください
迂回してください

迂回して道路を渡ったら、その先でこんな光景に出会いました。

バラと富士山
バラと富士山

吉原郵便局の所でも言いましたが、富士市の花はバラです。

迂回して渡った交差点から160m、旧東海道は県道396号に右から合流しますが、
すぐに左折して県道を離れます。

県道396号に合流してすぐ左折
県道396号に合流するも、すぐに写真中央の信号機の所で左折。

その前にここを一旦通り過ぎ、県道を150mばかり行った所にある
富士郵便局で風景印を押してもらいましょう。

富士郵便局
富士郵便局

富士郵便局の風景印
富士郵便局の風景印

富士郵便局の風景印は「田子の浦港と富士山の景観」です。
吉原、吉原中央町、富士と似ているようで違う図案が続きます。
今回は年賀はがき(無地インクジェット写真用)を使用しました。

では、150m戻って旧東海道の続きを歩きましょう。

06:23 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年9月 8日

【十四】富士が見えればそれで吉原 其の三

吉原宿に入りました。

吉原宿東木戸跡
吉原宿東木戸跡

東木戸跡は標柱のみで何も残っていません。

少し行くと岳南鉄道の踏切があり、その脇に吉原本町駅があります。

吉原本町駅
吉原本町駅

岳南鉄道は吉原から岳南江尾までの総延長9.2kmの路線です。
戦前に建設された日産の工場の専用線を延長する形で
まずは1949年に吉原本町駅までが開業。
1953年には岳南江尾駅までの全線が開業しました。
こうした経緯からか、電車は吉原駅を出るとまず東海道本線に沿って西へ進み、
次にジヤトコ(旧日産)の工場を目指して北へ進みます。
そして工場を西へ迂回すると、今度はぐるりと半円を描いて東へ進みます。
その半円の途中にこの吉原本町駅があります。

岳南鉄道7000形
旧東海道を横切る岳南鉄道7000形電車。
元京王電鉄井の頭線の電車です。

吉原本町駅は吉原駅に次いで2番目に利用者の多い駅です。
日中は駅員がいて窓口で切符を売っています。
入場券を買ったら、最近余り見かけない硬券(厚紙の切符)でした。
この切符の紙も地元産でしょうか。

吉原本町駅の入場券
吉原本町駅の入場券

電車は1時間に2本、貨物列車も1日4往復走ります。
ただ、輸送量はどんどん減っているそうです。

吉原本町駅の先にある吉原商店街は、かつての吉原宿の中心部です。
残念ながらシャッターが閉まっているお店が多いようです。

吉原商店街
吉原商店街

左の駐車場の隅に明治天皇御小休所の碑があります。
「明治十一年十一月六日 東海道 吉原 高砂館跡」と記されています。

明治天皇御小休所の碑
明治天皇御小休所の碑

歩道の覆いから「吉原宿」と書かれた暖簾が下がっています。
吉原宿の略図が描かれています。

吉原宿の暖簾
吉原宿の暖簾

この50m程先、商店街の途中で、吉原駅の所から歩いてきた県道171号は、
右から入ってくる県道22号に合流して終わります。
静岡県道22号と言えば三嶋大社の前を通る道で、
以前にも箱根西坂を過ぎて三島宿に入る辺りから、
伊豆箱根鉄道の三島広小路駅の所までを歩きました。

吉原商店街には、かつての宿場町の面影はありませんが、
宿場の様々な施設跡を示すレリーフが歩道に埋め込まれています。
上本陣跡は‥‥

上本陣跡
上本陣跡

現在はパチンコ屋です。
下本陣跡は‥‥

下本陣跡
下本陣跡

薬局です。私が訪れた日はシャッターが閉まっていました。
脇本陣跡は4箇所あるのですが‥‥

脇本陣跡
脇本陣跡

カメラ屋とおもちゃ屋と洋服屋と和菓子屋です。
おもちゃ屋と和菓子屋はしっかり営業していました。
問屋場跡は‥‥

問屋場跡
問屋場跡

眼鏡屋です。こちらも営業中です。
そして旅籠跡は‥‥

旅籠
旅籠

鯛屋旅館
鯛屋旅館

おっと失礼、こちらは跡ではなく現役でした。

吉原本町駅から約600m、商店街が終わる直前の静岡銀行がある交差点で、
旧東海道は左に曲がります。

吉原商店街出口手前
吉原商店街出口手前。旧東海道はここを左折。

今回はその前に一旦東海道を離れて直進します。
商店街を抜けた所に吉原中央駅があります。

吉原中央駅
吉原中央駅

駅と言っても鉄道の駅ではなくバスターミナルです。
でも、軒下に線路を敷けば地方私鉄の始発駅に見えますね。
鉄道が廃止されて駅がバスターミナルに生まれ変わる例もあるようですが、
ここは初めからバスの駅です。

吉原中央駅の出札窓口
吉原中央駅の出札窓口

乗り場は鉄道の駅のように1番線、2番線‥‥と呼ばれ、5番線まであります。
時刻表を見るとかなり多くの行き先がありました。
ただし、富士駅や新富士駅へのバスはそれぞれ1時間に1本くらいです。
富士市はJR在来線(東海道本線と身延線)や岳南鉄道、バスが
新幹線とうまく連携しておらず、よそ者にとっては交通の便が悪い印象があります。

吉原中央駅から歩いて10分くらいの所に吉原郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。
品川郵便局以来久々に少し街道から離れた場所での押印になりました。

吉原郵便局
吉原郵便局

吉原郵便局の風景印
吉原郵便局の風景印

吉原郵便局の風景印は
「田子の浦港から見た富士山に東海道新幹線と特産の洋紙」です。
元吉原の方にある鈴川郵便局と同じ図案です。
切手は愛知の自然 ばらです。
富士市の花がバラなのでこの切手を選びました。

沼津から歩いて来たら夕方になってしまいました。
吉原中央駅から吉原駅行きのバスに乗って一旦帰ることにしましょう。

05:19 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年9月 7日

【十四】富士が見えればそれで吉原 其の二

吉原駅北口交差点からちょっとだけ旧東海道を離れ、吉原駅を見てみましょう。

吉原駅
吉原駅

関東と関西を結ぶ鉄道路線は横浜から西へ建設が進められ、
1889年2月1日には静岡に達しました。
この時、静岡県富士郡元吉原村のこの地に鈴川駅が設けられました。
元吉原村は1955年に吉原市に編入され、翌年鈴川駅は吉原駅に改称されました。
所在地の元吉原村が、移転後の吉原宿を起源とする吉原市に編入され、
ここも吉原になったというわけです。
なお、吉原市は1966年に(旧)富士市、鷹岡町と合併して
(現)富士市になりました。

沼津から歩いて来たこの日は晴れているのに富士山だけ見えなかったのですが、
この先の名勝左富士で富士山が見えないのでは話になりません。
後で富士山がよく見える日に歩き直したので、
ここから吉原宿まではその時の写真も交えて紹介します。

吉原駅のホームからも富士山が見えます。
駅には近くの製紙工場で作られた紙を運ぶ貨車が停車中です。

吉原駅のホームから見た富士山
吉原駅のホームから見た富士山

旧東海道に戻りましょう。
今まで海岸沿いに西へ進んでいた東海道が、
内陸の吉原宿へ向かうため、ここから北西に進路を変更します。

吉原駅前は静岡県道171号吉原停車場吉原線の起点です。
吉原宿へ向かう道で、吉原駅前を除くほとんどの部分が旧東海道です。
吉原駅北口交差点で旧東海道に入ると、ここから河合橋交差点までの150mは、
元吉原を通り抜けてきた県道170号との重複区間です。

河合橋交差点
河合橋交差点。県道170号は左へ。旧東海道は直進。

河合橋の先で道は左右に分かれます。旧東海道は左です。
右の道の方向に富士山が見えます。

河合橋の先から見た富士山
河合橋の先から見た富士山

左の道に1本だけ松の木があります。

1本だけある松の木
1本だけある松の木

道なりに行くと、県道171号は国道139号と合流し、車の通りが多くなります。
その先に国道1号(富士由比バイパス)の高架があります。

国道1号(富士由比バイパス)をくぐる
国道1号(富士由比バイパス)をくぐる

ここからは見えませんが、向こう側に新幹線の線路も並んでいます。
県道171号即ち旧東海道はここで国道139号から離れ、国道1号をくぐります。
この先に左富士がありますが、
国道1号をくぐったあたりでは、まだ富士山は右に見えています。

まだ右側に見える富士山
まだ右側に見える富士山

その先で道は緩やかに右へ曲がり、北西だった進行方向がほぼ真北になります。
富士山は正面に来ました。

正面に見える富士山
正面に見える富士山

吉原宿が中吉原にあった頃の東海道はこの付近から西へ行っていたようですが、
分岐点の痕跡は残っていないようです。
このすぐ先に左富士神社があります。

左富士神社
左富士神社

ここから進路はさらに右、北北東になります。
そして左富士神社から100m、広い通りとの交差点で左富士が見えます。

吉原の左富士
吉原の左富士

松の木が1本だけあり、この下が小さな公園になっています。
ここに立派な左富士の解説板があります。

左富士の解説板
左富士の解説板

公園の先には左富士というバス停もあります。

左富士バス停
左富士バス停

この辺り、道の左側は工場です。
残念な事に、もっともいい位置に富士山が見えそうな場所からは、
工場の建物に遮られてよく見えません。
この工場の脇で道は左に曲がり、左富士は終わってしまいます。

左富士を過ぎた所に富士依田橋郵便局があります。
名勝左富士に一番近い郵便局ですが、残念ながら風景印はありません。

左富士が見えた交差点から500m余り、平家越え橋で和田川を渡ります。

平家越え橋
平家越え橋

この辺りは治承4年(1180年)、富士川の合戦が行われた場所です。
夜間に源氏の軍勢が動いた際、近くの沼にいた水鳥の群れが一斉に飛び立ち、
これを夜襲と勘違いした平氏の軍勢が大慌てで逃げたと伝えられています。
あくまで私の憶測ですが、敗者である平氏のエピソードは
意図的に間抜けっぷりが誇張されて伝えられているのではないかと思います。
きっと源氏の間抜け話は隠されているんですよ。

平家越え橋を過ぎれば、吉原宿の入口、東木戸跡まであと500mくらいです。
途中、富士山がよく見える場所がありました。

平家越え橋と東木戸跡の間で見た富士山
平家越え橋と東木戸跡の間で見た富士山

ここの道路に面した土地は更地になっているので、
いずれ何らかの施設ができて富士山が見えにくくなるでしょう。
ただし、少し市街地を離れれば富士山がよく見える場所はたくさんあるので、
無理に町中の旧東海道から見る必要もありません。

間もなく吉原宿です。

08:38 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年9月 6日

【十四】富士が見えればそれで吉原 其の一

富士市に入りました。

これより富士市
これより富士市

沼津宿を出た辺りから歩いてきた県道163号は
この先300mの東柏原交差点で県道380号(旧国道1号)に合流して終わります。
そこからさらに700m、東海道本線東田子の浦駅の先辺りに
間の宿柏原がありました。
往時を偲ぶ事ができる物は残っておらず、今は標柱が立つのみです。
そしてその先に立圓寺があります。

立圓寺
立圓寺

境内には大型船の錨が置かれています。
これはインドネシア船籍の貨物船「ゲラテック」の錨です。

ゲラテックの錨
ゲラテックの錨

清水港を出港したゲラテックは1979年10月19日、台風20号に遭遇し、
ここ立圓寺の南方にある柏原海岸で座礁しました。
錨の脇にはこの時亡くなった船員2名の名を刻んだ慰霊碑もあります。
そばにある解説によれば、近隣はもちろん
東京、愛知、山梨などからも集まった野次馬の数は休日には5万人にも上り、
売店が十数軒出店する程の勘違いっぷりだったようです。

立圓寺から350m程行った広沼橋の下を昭和放水路が流れています。

昭和放水路
昭和放水路

原宿の増田平四郎は、愛鷹山の南に広がる湿地帯、浮島沼の干拓を計画しました。
しかし工事の許可はなかなか下りず、代官所へ願い出る事12回、
勘定奉行に籠訴する事6回にしてようやく認められました。
実に発案から着工まで27年。工事は明治維新を跨ぎ、
明治2年(1869年)の春に排水路が完成しました。
全長505m、幅7mの大きな掘り割りを人々はスイホシ(水干し)と呼びましたが、
完成したその年の8月、高波で完全に破壊されました。
しかし、平四郎の干拓計画は後の世の人々に受け継がれ、
スイホシと同じ場所に昭和放水路が建設されました。
広沼橋を渡った所に増田平四郎の像があります。

増田平四郎の像
増田平四郎の像

ちなみにこの像の所にある解説板では
スイホシの着工を「1867年(慶応元年)」としています。
新暦の1867年は旧暦の慶応2年11月26日から慶応3年12月6日まで、
旧暦の慶応元年は新暦の1865年1月27日から1866年2月14日までです。
よって「1867年(慶応元年)」と書いてあるのは明らかに間違いなのですが、
ネット上で検索するとこの通りに書いてあるサイトが多いようです。
1867年なのか慶應元年なのか、実際はどちらなのでしょう。

また、ここは日本橋から33里(129.6km)の一里塚があった場所でもあります。
現在塚の痕跡は無く、標柱が立っているだけです。
ちなみに、この標柱では33里を129.69kmとしています。

一里塚の解説
一里塚の解説

尺貫法とメートル法の換算は
1891年公布の度量衡法で1尺=(10/33)mと定められ、
ここから計算すると1里(12960尺)は3.92727‥‥km、
33里はちょうど129.6kmになります。
1里はkmに換算すると循環小数になるため一般には3.93kmとされますから、
これを単純に33倍して129.69kmと書いたのでしょう。

さて、重箱の隅をつつくのはこのくらいにして先へ進みましょう。
広沼橋からそのまま県道380号を1km進むと檜交差点です。

檜交差点
檜交差点

ここは、ここまで歩いてきた県道380号と県道170号との分岐点で、
旧東海道は県道170号の方へ進みます。
静岡県道170号田子浦港大野線は東海道本線吉原駅近くの田子浦港へ続く道で、
田子浦港付近の一部を除く大半が旧東海道に含まれています。
檜交差点では直進する380号から左へ別れる170号が支線のように見えますが、
380号はここから内陸方向へ大きく進路を変えており、
地図で見ても元の道は170号にまっすぐ続いていた事が伺えます。
歩道はこの交差点の外側を左へぐるりと回るように続いており、
「旧東海道順路」と書かれた標識が立てられています。

檜交差点を過ぎると日本製紙富士工場の高い煙突が見えてきます。

日本製紙富士工場の煙突が見える
日本製紙富士工場の煙突が見える

富士市は日本屈指の「製紙の街」です。
富士市商工農林部工業振興課がまとめた
「富士市の工業(平成21年4月)」という資料によれば、
2007年に市内で生産された紙・板紙の総生産量は3,617,417トンで、
全国生産量の11.6%を占めています。
(板紙とはボール紙などの厚紙のことです)
全国生産量に占めるシェアが目立って多いのはトイレットペーパーで、
31.5%が富士市で作られています。
ただし、近年は不況の煽りで業界の再編が進んでいます。
まあ、その辺はどこの業界でも同じですね。

富士市周辺ではかなり古い時代から紙が作られており、
平安時代の延喜式に「駿河より紙を貢ぐ」という記述があるそうです。
製紙には大量の水が必要です。現代の製紙工場では、紙1トンを生産するのに
50トンから500トンもの水を使いますが、
富士市周辺は富士山の伏流水などの水資源に恵まれています。
江戸時代には、この周辺に自生していたミツマタが原料に使われるようになり、
1889年(明治22年)には鉄道が開通して大量輸送が可能になりました。
市街地化が進んでいないため工場用地の確保が比較的容易で、
大量消費地である大都市へもそんなに遠くないという地の利が生かされ、
近代以降も製紙はこの地の重要な産業であり続けました。

製紙工場の煙突が近付いてくると、臭いも近付いてきます。
高い煙突から白い煙がもくもくと吐き出されているのを見ると、
今日富士山が見えないのはこいつらのせいじゃないかと思えてきます。
あの白いのは湯気ですから、きっと雲の生成に加担していることでしょう。

時々あの白いのが有害物質だと思っている人がいますが、違います。
本当に有害な煙があんなにたくさん出ていたら大変ですよ。
(と言っても湯気に混じって少しは出ているみたいですが)

少し行くと「石屋前」というバス停がありました。

石屋前バス停
石屋前バス停

確かに石屋さんの前にあります。
後で調べたら、この辺りの町名である大野新田は
1つ手前の停留所の名前に使われていました。
停留所名がネタ切れだったようです。

さらに進み、今井という地域に入ります。
この辺りから東海道本線吉原駅手前までが初期の吉原宿があった場所で、
元吉原と呼ばれています。

この辺りが元吉原
この辺りが元吉原

吉原宿は徳川家康による五街道整備(1601年)以前からあった宿場ですが、
1639年に津波で大きな被害を受け、内陸部に移転しました。
これが中吉原ですが、ここもまた1680年に津波の被害を受け、
さらに内陸の、今回目指す吉原宿へ再度移転しました。

富士山をモチーフにした柵がありました。

富士山をモチーフにした柵
富士山をモチーフにした柵

県道170号に入った檜交差点から1.8kmの所で道が二手に分かれます。

右へ行くと踏切
右へ行くと踏切

地図を見ると、元の東海道はここを直進し、
その先で現在の東海道本線を斜めに横切るように続いていたようです。
今は線路に分断されているので、ここを右に行って鈴川踏切を渡ります。

鈴川踏切
鈴川踏切

踏切の所で線路を見たら、日本製紙富士工場の前に貨車が並んでいました。

製紙工場前の貨車編成
製紙工場前の貨車編成

この貨車はワム80000形です。
国鉄時代の1960年から1981年までに、実に26000両以上が製造されました。
箱形車体の側面が総開きの引き戸になっており、
フォークリフトで積み荷をパレットごと積み込めるのが特徴です。
車体が青いものは車輪の軸受けがローラーベアリングに改造されています。
昔は国鉄線のどこでも見られた貨車ですが、近年貨物列車はコンテナが多くなり、
今は紙輸送列車に残る程度です。
吉原駅から出るワム80000形は埼玉県の新座貨物ターミナルまで行きます。

吉原駅の敷地に沿って踏切から道なりに360m進むと吉原駅北口交差点です。

右奥の信号の所が吉原駅北口交差点
右奥の信号の所が吉原駅北口交差点

ここを左へ曲がると吉原駅です。旧東海道は直進です。

09:06 | カテゴリー:東海道スタンプラリー