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2008年5月30日

【六】藤沢の「ほんちょう」と「ほんまち」

県道30号戸塚茅ヶ崎線を進み藤沢市に入りました。
道路脇には松の木も植わっています。
駐車場に置かれた車のナンバーも「横浜」から「湘南」に変わりました。

これより藤沢市
これより藤沢市

やがて道は長い下り坂になります。
遊行寺(ゆぎょうじ)坂です。
元の道を掘り下げて改修したため両側が高い崖になっています。

一里塚跡の標柱
一里塚跡の標柱

かつて一里塚があった場所が標柱で示されています。
「現在は何も残っていません」とわざわざ書かれています。
標柱があるのは元の地面より低い場所ですから、
上に何か残っているのではと期待する人も多いのでしょう。
この近くに見附跡の標柱もあるようですが見落としました。

遊行寺
遊行寺

坂が終わる少し手前の右手にある大きなお寺が遊行寺です。

県道30号は遊行寺坂が終わるとそのまま直進しますが、
旧東海道は遊行寺の先で右に曲がり、県道を離れます。

ただ、この辺りから右に入る細い道は2本あり、
どちらが旧東海道かは資料によって異なります。
今回は決め手になる案内表示などが無く、距離も短いため、
両方の道を歩いてみました。

県道から右折する場所
ここを右へ行くと遊行寺の南側の門の前。
奥の「クスリ」と書かれた建物の向こうにもう1本道がある。

手前の道はうっかり見落としそうな程細く、
遊行寺の総門(表門)の前に出ます。
旧東海道は門の前で左折です。

遊行寺総門
遊行寺総門

奥の道は、これと言って変哲のない道でした。
突き当たりを左折して遊行寺総門の前からの道と合流します。

その先にある赤い欄干の橋が遊行寺橋です。
かつてここに架けられていた大鋸(だいぎり)橋は
歌川広重の浮世絵に描かれています。
下を流れる川は境川です。

遊行寺橋
遊行寺橋

橋を渡った先で国道467号に突き当たります。
旧東海道はここを右折し、800メートル程の短い間国道を通ります。
その途中に藤沢本町郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。

藤沢本町郵便局
藤沢本町郵便局

藤沢本町郵便局の風景印
藤沢本町郵便局の風景印

藤沢本町郵便局の風景印は
「広重東海道五十三次・藤沢、『昔話のある町』の看板」です。
切手は「神奈川県の花」のふじです。
藤沢市の花であるふじと江の島が描かれています。

「昔話のある町」の看板
「昔話のある町」の看板

これが「昔話のある町」の看板です。

この日は神奈川台関門跡を午前10時に出て、
藤沢本町郵便局には午後4時半に着きました。
過去2回、最後の郵便局に着くのはぎりぎりでしたが、今回は順調でした。
ここで一旦帰宅し、後日続きを歩きました。

藤沢もまた宿場町を感じさせる物は寺社以外ほとんどありません。
江戸方見附跡や一里塚跡がそうであったように、本陣跡も標柱だけです。
ただ、街道沿いには古い建物が散見され、
昔から栄えた町であることはわかります。

旧東海道藤沢宿内の古い建物

旧東海道藤沢宿内の古い建物

街道沿いの医院にあった鉢植え
街道沿いの医院にあった鉢植え

ここでも春の花が街道を行く旅人の目を楽しませています。

郵便局から500m弱、白旗交差点で早くも国道467号と別れます。
ただし今回は国道の方が右折。旧東海道は直進し、
ここから神奈川県道43号藤沢厚木線になります。
この辺りに義経の首洗い井戸があるはずなのですが、
見つからないのでまた今度にします。
そこから200m弱で伊勢山橋です。

伊勢山橋
伊勢山橋

下を小田急江ノ島線が通っています。
橋の袂から坂を下りるとすぐに藤沢本町駅です。
町名の読みは「ほんちょう」で、郵便局も藤沢「ほんちょう」郵便局ですが、
駅は藤沢「ほんまち」です。
各駅停車だけが停車します。

藤沢本町駅
藤沢本町駅。
5200形各停町田行き(左)と1000形各停片瀬江ノ島行き。

ところで、今回の旅に関連する移動では、
保土ヶ谷宿で相鉄(相模鉄道)、ここ藤沢宿で小田急に乗りました。
どちらも久々の乗車だったのですが、
いつの間にか車体にポップな感じの新しいロゴマークが付いています。
新車はともかく、昔から走っている古い車輌に付いているのを見ると
ちょっとびっくりしますね。
私はずっとJRの沿線に住んでいるのですが、
1987年の国鉄民営化の時に一斉にJRマークが付いたのを見て
若干抵抗を感じたことを思い出しました。

伊勢山橋を渡るとすぐ上方見附跡があります。
例によって標柱のみ。これで藤沢宿は終わりです。

伊勢山橋から1km程、メルシャン藤沢工場の向かいに
「おしゃれ地蔵」があります。
女性の願い事なら何でも叶えてくれるお地蔵さんで、
願いが叶ったら顔に白粉を塗ってお礼をするのだそうです。
仲の良い女性の代わりに私がお参りではだめでしょうか。
とりあえずだめでもいいから
彼女のために何かお願いしておけばよかったですね。

おしゃれ地蔵
おしゃれ地蔵。解説板によると地蔵よりむしろ道祖神の形態だそうです。

メルシャン藤沢工場の先、羽鳥交差点で、
白旗交差点から歩いてきた県道43号が右へ分岐してお別れ。
ここから神奈川県道44号伊勢原藤沢線になります。
しかしそれも束の間、わずか1km先の四ツ谷交差点で
藤沢市に入る手前でお別れした国道1号に戻ります。
藤沢バイパス出口交差点からわずか5.5km程の間に
道は国道1号→県道30号→国道467号→県道43号→県道44号と変わり、
結局国道1号に戻ります。
これだけ変わるともうどうでもいい気がしてきます。

藤沢市はここまで
藤沢市はここまで。市内の歩行距離は約5.8kmでした。

そして、国道を歩くこと700m、藤沢市が終わります。
次の宿場は平塚ですが、その前に茅ヶ崎市を通ります。

15:52 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月29日

【五】戸塚の長い坂道 後編

戸塚宿に着きました。

吉田大橋
吉田大橋

今はファミレスになっている江戸方見附から400m、
柏尾川に架かる橋が、広重の浮世絵にも登場する吉田大橋です。
大橋と言っても長さは50m程。現在の橋は1986年に架けられました。

横から見た吉田大橋
横から見た吉田大橋

吉田大橋の袂にある広重の浮世絵
吉田大橋の袂にある広重の浮世絵。中央の道標が妙秀寺に現存しています。

橋の袂の説明板に広重の絵がありました。
この絵にある「左りかまくら道」と書かれた道標が
近くの妙秀寺で保存されています。
もちろん行ったのですが、お葬式の準備中だったので
見ないで戻ってきてしまいました。

戸塚駅付近の旧東海道沿いには、
トミーテックの街並みコレクションにありそうな素敵な建物が
いくつもありました。

旧東海道戸塚宿内の古い建物

旧東海道戸塚宿内の古い建物

旧東海道戸塚宿内の古い建物

吉田大橋から600m、戸塚駅のすぐ脇に、
先程のワンマン道路建設のきっかけを作った「開かずの踏切」があります。
そして、そこから300m、戸塚駅西口の旧東海道沿いに戸塚郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。

戸塚郵便局
戸塚郵便局

戸塚郵便局の風景印
戸塚郵便局の風景印

戸塚郵便局の風景印は
「国道1号線に残る戸塚宿の松並木とお軽勘平記念碑と富士山」です。
切手は「東京の四季の花・木II」のサクラです。
戸塚区の花がサクラなのでこの切手を選びました。

大坂下
大坂下交差点

本陣跡、富塚八幡を通り過ぎつつ市街地を1km程進むと
大坂下という交差点があります。
この少し手前に上方見附があるはずですが見落としました。
ここで戸塚宿はおしまいです。
ここから大坂が始まります。上り坂が1km以上続きます。

坂を上り始めてすぐ庚申塔がありました。

戸塚の庚申塔
戸塚の庚申塔

謡曲「鉢の木」では、鎌倉幕府の御家人佐野源左衛門が、
貧乏で馬に十分なえさを与えられず、
この大坂を通る際に馬が2回も転びます。
会社から通勤用のガソリン代が支給される今のサラリーマンと違って
昔の人は大変だったんですね。

大坂下交差点から約900mの所で、戸塚宿手前の不動坂交差点で分岐した
横浜新道戸塚支線、通称ワンマン道路と合流します。
その少し先に、戸塚郵便局の風景印にも描かれた
お軽勘平戸塚山中道行の場の碑があります。
仮名手本忠臣蔵の四段目と五段目の間の所作事、
「道行旅路の花聟」通称「お軽勘平」の舞台に建てられた碑です。

お軽勘平戸塚山中道行の場の碑
お軽勘平戸塚山中道行の場の碑

江戸時代、現代劇の上演は基本的に禁止でした。
しかも忠臣蔵は、赤穂藩取りつぶしに対して不満を言う、
幕府に対して批判的な内容です。
そのままでは上演できません。
そこで室町時代の恋愛の話に置き換えられたのがこの「お軽勘平」です。
初演は1833年です。

現代人の私から見ると江戸時代は何かと窮屈な時代に思えますが、
170年後の人々は今の我々の事をどう思うのでしょう。
案外、後期高齢者医療制度の事など知って、
「えーっ、平成時代の政治ってそんなむちゃくちゃだったの?
当時の庶民は良く生きていられたね」なんて思うのかもしれません。

原宿一里塚跡
原宿一里塚跡

さらに2km弱進むと、原宿の一里塚跡があります。
塚自体は残っていません。
そこから2km、藤沢バイパス出口交差点で国道1号と別れ、
ここから分岐する県道30号戸塚茅ヶ崎線に入ります。

横浜市の終わり
横浜市の終わり

県道を300m程進むと、広い横浜市もそこで終わり。
横浜市内の歩行距離は約28kmでした。
ここから藤沢市に入ります。藤沢宿は目前です。

06:12 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月28日

【五】戸塚の長い坂道 前編

武相国境の標柱
武相国境の標柱

境木の武相国境を過ぎると、今度は焼餅坂を下ります。

焼餅坂
焼餅坂

ここはかつて茶屋が並び焼餅を売っていたとか。
今は静かな住宅街です。
坂を下りきったあたりでJR横須賀線の東戸塚駅から1km程の道のりです。
坂の上り下りに自信があれば、なかなかの住環境です。

その先、少し坂を上ると品濃の一里塚があります。
江戸からの距離は9里。
ここは神奈川県内の一里塚で唯一、道の両側の塚が残っています。

品濃の一里塚 西側
品濃の一里塚。
こちらは上方に向かって右の塚で、公園として整備されています。

上方に向かって右の塚は公園として整備されており、
てっぺんまで登ることができます。
脇から塚の裏手へ回る道があり、途中に公園の入り口があります。

品濃の一里塚 東側
こちらが左の塚。

左の塚は立ち入り禁止の札があったのですが、
後で調べたらこちらも裏手に公園があるという資料もありました。
そう言えばてっぺん近くにそれっぽい柵があったので、
旧東海道側の斜面が立ち入り禁止になっているだけかもしれません。

その先も暫く住宅地で、学校や農地もあります。
右手には高層ビルが見え、東戸塚駅へつながる歩道橋がありますが、
旧東海道は幅の狭いのどかな道のままです。
やがて道は下り坂になります。品濃坂です。

品濃坂
品濃坂を下りきった所。

品濃坂を下りると品濃坂歩道橋があります。
下を通るのは、横浜市主要地方道17号環状2号線です。
横浜の中心街がある中区を避けるようにして南北を結ぶ幹線道路です。

品濃坂歩道橋
品濃坂歩道橋

旧東海道はこの写真で歩道橋を渡って左の階段を下りたところから
画面奥へと続いています。
元はつながっていたのが、環状2号線ができて分断されてしまいました。

品濃坂歩道橋を下りた所
品濃坂歩道橋を下りた所。右が旧東海道。

旧東海道を示す標識
旧東海道を示す標識

戸塚区内はこんな標識で旧東海道が示されています。
ありがたいのですが、紙に印刷して透明フィルムで保護しただけの物で、
いつまでもつか不安です。

そこから暫くは、東戸塚駅の南にある住宅街です。
焼餅坂・品濃坂辺りより緑が少ない代わりに平坦で歩きやすいです。
歩道橋を渡ってから約800m、
保土ヶ谷宿上方見附以来の国道1号にぶつかりますが、
そのまま突き抜けて、並行する細い道に入ります。
(相対的に細いだけで特に狭い道ではありませんが)
ここから約700mは、たまに国道に戻りつつ細い道を進みます。

赤関橋の東海道をイメージした絵
赤関橋の東海道をイメージした絵

途中の赤関橋には東海道をイメージした絵が彫られています。
赤関橋から300m程でまた国道に合流し、ここからは国道を進みます。
そこから約900m、不動坂交差点のすぐ手前に、
神奈川県指定天然記念物、益田家のモチノキがあります。
樹齢約300年とのこと。見事ですね。

益田家のモチノキ
益田家のモチノキ

ところで、「モチモチの木」という絵本がありますけど、
あの本で、秋になると実をつけ、
実を粉にしておもちにするとほっぺたが落ちるほどおいしくて、
霜月二十日の晩に灯がともるというモチモチの木って
ひょっとしてモチノキなんでしょうか。
そばに解説板があるので読んでみましょう。

「この樹皮より鳥もちを作ることからモチノキの名の由来があり‥‥」

違いましたね。

不動坂交差点付近
不動坂交差点付近

この木のそばから旧東海道は国道から離れて左に進みます。
一方、国道1号は不動坂交差点で二手に分かれます。
左が元来の国道1号で、戸塚駅の所の踏切で東海道本線と交差します。
ここは東海道本線と横須賀線の電車がひっきりなしに通る開かずの踏切です。
渡るのに30分待たされたという話も聞きます。

昔、吉田茂首相が大磯の邸宅から東京へ向かう際、この踏切で業を煮やし、
踏切を通らないバイパスを造らせたという逸話が残るのが、
不動坂交差点から右へ進む横浜新道戸塚支線、通称「ワンマン道路」です。
この先400m程の所で東海道本線の上を跨ぎます。

ハム工場
ハム工場

不動坂交差点付近から旧道を暫く進むと、かつてのハム工場がありました。
神奈川県の多くの業者によって製造される鎌倉ハムは
1874年、イギリス人ウイリアム・カーチスが
外国居留民のために作ったのが始まりとされています。
その発祥の地が今歩いているこの辺りなのですが、
当時ここは鎌倉郡だったため鎌倉ハムの名が付いたのだとか。

不動坂交差点手前から500m弱でちょっと広い道に突き当たります。
ここを右へ行くと、程なく舞岡入口交差点で
国道1号(ワンマン道路じゃない方)に合流します。
そして舞岡入口交差点から300m、ようやく戸塚宿江戸方見附跡です。
現在はファミリーレストランです。

江戸方見附跡碑
江戸方見附跡碑

江戸を早立ちした旅人は、
ここ戸塚宿で最初の宿泊をすることが多かったそうです。
私の場合は日本橋-川崎間を正味約6時間、川崎-神奈川間を3時間、
神奈川-戸塚間を4時間で歩いています。
午前4時に日本橋を出れば夕方5時に着ける計算ですが、
3日に分けて歩いているので、1日で歩き通せるかどうかは怪しいです。

話はひとまずここまで。後編に続きます。

06:21 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月26日

【四】程ヶ谷は細長い谷 後編

元町橋を渡り、昔の程ヶ谷宿だった元町地域を抜けました。
このまままっすぐ行けば道はまた国道1号に合流しますが、
旧東海道はその少し手前で右へ曲がり、権太坂に入ります。

権太坂の入り口
権太坂の入り口

江戸から東海道を西へ向かう場合、権太坂は最初の難所です。
こういう難所を乗り切るコツは、
脳をトランス状態にして、疲労に気付く前に上り切る事です。
元町ガード交差点の所にあった自動販売機で飲み物を買っておき、
脳内で「できるかな」のテーマ音楽を再生しながら
一定の速さでどんどん上ります。
春の花が咲いています。
ちなみに私はノッポさんと同じ高校を卒業しました。(本当です)
どうでもいいですね。

権太坂
権太坂

途中で横浜新道を跨ぎます。
写真にはありませんが、横浜ランドマークタワーも見えました。

横浜新道
横浜新道

上り始めて20分弱、約1km進みました。この辺りが権太坂のてっぺんです。

権太坂頂上付近
権太坂頂上付近

そこから250m程行くと突き当たりです。
旧東海道は右ですが、ちょっと左の方へ寄り道をします。

権太坂の先の突き当たり
旧東海道は突き当たりを右。投げ込み塚の碑は左。

ほんの数分歩くと、投げ込み塚の碑があります。
江戸を早立ちした人は、その日のうちに戸塚を目指しました。
ここ権太坂は戸塚に着く手前の難所。
疲労が蓄積して行き倒れになる人も少なくなかったといいます。
その行き倒れの人を投げ込んだと言われる井戸がありました。
近年、横浜市の行った発掘調査で、
実際に投げ込みが行われていた事が確認され、
ここに供養碑が建てられました。
なお、投げ込み井戸はここにあったわけではないそうです。

投げ込み塚の碑
投げ込み塚の碑

さっきの突き当たりまで戻って今度は右へ。
200m程先の大きな木がある所が境木立場跡です。
立場とは宿場間に設けられた休憩所です。
ここは江戸方から来ると権太坂、
上方から来ると品濃坂・焼餅坂を上り切った場所なので
休憩できる場所があったわけです。

境木立場跡
境木立場跡の大木

そしてここで保土ヶ谷区から戸塚区に入ります。
今はどちらも横浜市ですが、江戸時代はここが武蔵国と相模国の国境でした。
それ故「境木」という地名なのです。

武相国境の標柱
武相国境の標柱。2005年に立てられました。
後ろの階段を上ると境木地蔵尊です。

ここ境木にある境木地蔵尊にはこんな言い伝えがあります。

鎌倉の腰越海岸に流れ着いたお地蔵さんが、
「江戸へ行きたい。もし途中で動かなくなったらそこで降ろしてくれ」
と言うので、腰越の漁師たちが荷車に乗せて運ぶことにしました。
ところが、境木まで来たら荷車を引いていた牛が動かなくなったので、
初めに言われたとおりお地蔵さんをそこへ置いて帰りました。

すると今度はお地蔵さんがお堂を建てて欲しいと言い出すので、
境木の村人たちがお堂を建てたら人々がお参りに来るようになり、
境木は賑やかな場所になりました。

石のお地蔵さんが流れてくるというのもにわかには信じがたいし、
実のところ運ぶのが予想外に大変でここで諦めたか、
最初から境木に安置するつもりだったのかもしれませんが、
そんな伝説の残るお寺があります。

次の戸塚宿までは5km程です。

06:38 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月25日

【四】程ヶ谷は細長い谷 中編

広重の浮世絵に描かれた橋がかつてあった場所だという公園を通り抜けます。
公園内で道は左に曲がり、西区以来の環状1号に合流します。
なお、この公園の右脇から延びる細い道を
旧東海道とする資料もあるようですが、
今回は保土ヶ谷区設置の案内板に従い環状1号を歩きました。

公園から環状1号へ
公園から環状1号へ

途中、素敵な古い建物をいくつかみつけました。

旧東海道程ヶ谷宿内の古い建物

旧東海道程ヶ谷宿内の古い建物

帷子会館

通りはやがて緩く左へ曲がりJR保土ヶ谷駅へ至りますが、
旧東海道は曲がらずまっすぐ分岐する細い道を進みます。

旧東海道と保土ヶ谷駅方面の分岐点
旧東海道と保土ヶ谷駅方面の分岐点

分岐点にあるお店のシャッターに昭和の香りのキャラクター。
今ここで営業しているのは食べ物屋さんなのですが、
この絵は電気屋さんのマスコットだったような気がします。

昭和の香りのキャラクター
昭和の香りのキャラクター

ここから300m程の間に助郷会所、問屋場、高札場の跡がありますが、
全て解説が書かれた標柱のみで、現在は何も残っていません。

東海道本線の踏切
JRの踏切。横須賀線の電車が通過中。

その先に踏切があります。
東海道本線と横須賀線の電車がひっきりなしに通過します。
この踏切の辺りから町名が保土ヶ谷町になります。
保土ヶ谷町は長さ1.6km、幅は広い所でも150m程の細長い地域です。
この辺りは今井川によって削られてできた谷で、
旧東海道もその今井川に沿っています。

保土ヶ谷の地名の由来は諸説ありますが、民俗学者の柳田国男は、
この地形が女性の陰部(=ほと)に似ているからという説を発表しています。
私は不勉強で、この説を肯定する事も否定する事もできませんが、
この地形が女性の陰部に似ているとすれば、
まっすぐな谷はみんな保土ヶ谷になってしまいそうな気がします。

ただ、これに関連してちょっと面白い話があります。
程ヶ谷宿に入った所に帷子橋という橋がありました。
帷子は裏地のない和服の総称ですが、下着と解釈する事もできます。
だから「程ヶ谷宿の帷子橋」と来れば、一体どんな橋かと興味が沸くわけで、
それ故帷子橋は多くの浮世絵に描かれたのではないかというのです。
これは私のサイトと相互リンクして頂いている伊達゛百一さんのブログ
「東海道を旅しよう! 霊柩車編」で述べられている事です。
実際の由来がどうであれ、
保土ヶ谷という地名から女性の陰部を連想する事は可能ですからね。

以前から広告でしばしば使われる手法に、
セックス或いは死を連想させる物を画像内に隠しておき、
見る人の潜在意識に訴えるというものがあります。
例えば、煙草の箱に描かれた動物の顔に
よく見ると男女の性器に見える部分があるとか、
水割りのグラスに入った氷の一つが向きを変えると髑髏に見えるとか、
そういう広告が実際にあったようです。
「程ヶ谷宿の帷子橋」はこれより露骨な手法ですが、
たかだか400年程度では人間の心理は変わらないのでしょう。

本陣跡
本陣跡。通用門のみ残っています。旧東海道はここを右へ。

踏切を過ぎると、今度は神奈川宿青木橋以来の国道1号に突き当たります。
そこにあるのが本陣跡です。
塀の中に当時の通用門のみ残っていますが、公開はされていません。
旧東海道はここで国道1号に合流し、右に曲がります。

本金子屋跡
本金子屋跡。伝・明治2年建築。

立派な建物があるので近付いてみたら、本金子屋という旅籠の跡でした。
江戸時代から営業していたようですが、
この建物は1869(明治2)年に建てられたと伝えられているそうです。
今は営業していません。

上方見附・一里塚跡
上方見附・一里塚跡。昭和初期までこの付近にも松並木があったそうです。

上方見附は本陣跡から600m程でしょうか。
同じ場所に一里塚跡もあります。日本橋から8里です。
今はいずれも残っていませんが、松を植えるなどして雰囲気を出しています。
これで一応程ヶ谷宿は終わりなのですが、
ここは1648年の東海道ルート変更に伴い江戸方に移転した宿場の終わりです。
それ以前はこの先権太坂の手前までの元町と呼ばれる地域に
宿場があったとされています。

上方見附・一里塚跡のすぐ先で国道1号は左へ少しそれます。
そこから別れてまっすぐ進む細い道が旧東海道です。
500m余り進むと横浜保土ヶ谷三郵便局があります。
今回はここで風景印をもらいます。

横浜保土ヶ谷三郵便局
横浜保土ヶ谷三郵便局

横浜保土ヶ谷三郵便局の風景印
横浜保土ヶ谷三郵便局の風景印

横浜保土ヶ谷三郵便局の風景印は境木地蔵と権太坂だそうです。
切手は「神奈川県の花」のヤマユリです。
ヤマユリは県の花に指定されています。

郵便局から200mほど進むと突き当たりに出ます。元町ガード交差点です。
右に東海道本線のガードがあります。
旧東海道は左折です。その先は緩い上り坂で、すぐに元町橋があります。
渡ると右手に庚申塔があります。橋の手前までが昔の宿場町でしょうか。

元町の庚申塔
元町の庚申塔

橋の袂に元町についての解説がありました。
それによると、元町辺りに軒を連ねる民家の茅葺き屋根に、
イチハツというアヤメに似た花が咲いているのが珍しく、
旅人たちの評判になっていたそうです。
明治の初めには外国人にも知られるようになったというので
遙か昔の事かと思えば、
昭和30年代頃までは神奈川県の観光案内にも紹介されていたといいます。

今年(2008年)は中国の北京でオリンピックが開催されますが、
7年前に開催地に決まったまさにその日、たまたま私は北京にいました。
万里の長城では夜の開催地発表に備えてイベントの準備が進められており、
ホテルに戻ったら従業員がロビーのテレビの前に集まり
発表を今か今かと待っていました。

まだ都心近くでも古い街並みが残っている所がありましたが、
地下鉄建設のために古い城壁が一部壊されたと聞きました。
その時は何だかもったいないような気がしたのですが、
思えば日本も過去に同じ方法で発展してきました。
この旅の出発点である日本橋の上の首都高速が完成したのは
東京オリンピックを控えた1963(昭和38)年です。
程ヶ谷宿元町で民家の茅葺き屋根にイチハツが咲いていたのも
だいたいその頃までというわけです。

日本橋
日本橋の上を首都高速が跨いでいます。

たとえあの時東京でオリンピックが開催されなかったとしても、
首都高速もカラーテレビも新幹線もいつかは実現したでしょう。
しかし、生まれる6年前にオリンピックが開催されたおかげで
私は生まれた時から「何でもある生活」を享受する事ができました。
(携帯電話だけは大人になるまでありませんでしたが)
時代は違いますが、北京の人たちはきっとこれから
そういう恩恵を受けることになるのでしょう。
外国人の私としては「後悔しない再開発ができるといいですね」としか
言いようがありません。

自動販売機で飲み物を買い、デジカメで写真を撮りながら、
遙か500km先を目指して歩くという酔狂な旅の途中で
そんな事を考えました。

08:55 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月24日

【四】程ヶ谷は細長い谷 前編

神奈川宿の、広重の浮世絵にも描かれた台町の坂を上りきると、
右手に神奈川台関門跡の碑があります。
ここまでが神奈川宿です。
坂を下って行くと、上台橋という橋があります。
下は横浜駅西口から延びている道路です。
その先で神奈川区から西区に入り、やがて道が左右に分かれます。

県道への入り口
県道への入り口

左は県道横浜環状1号、右は県道と並行する細い道です。
資料によっては右の道を旧東海道としている物もありますが、
西区では左の環状1号を旧東海道としているようです。

西区の東海道の目印
西区の東海道の目印

西区内の東海道は路面にこんな目印が埋め込まれています。

浅間神社への道
浅間神社への道

県道が新横浜通りと交差する所が浅間下交差点です。
交差点の所にある公園の先で東海道は県道と別れて右折し、
1本裏の通りに入ります。
先程県道に入らず右へ行った道とここで合流します。

浅間神社
浅間神社

浅間神社の入り口です。
ここにある洞窟は富士山に通じているという伝説があり、
かつて源頼朝も調査を行ったとか。
実際は横穴式古墳だそうです。

芝生の追分
芝生の追分

700m程行くと芝生(しぼう)の追分です。
右の道を行くと300m程先で国道16号と合流し、八王子方面へ向かいます。
旧東海道は直進です。
ここから80メートル余りは旧東海道が西区と保土ヶ谷区の境界です。
西区内の東海道は1.5km程で終わります。

松原商店街
松原商店街

追分のすぐ先から松原商店街に入ります。
昔ながらの商店街ですが、結構賑わっています。
商店街を抜けた所で国道16号を横切ると、
今度はシルクロード天王町商店街です。
商店街に入るとすぐに程ヶ谷宿の江戸方見附跡があります。
元は盛り土などがあったようですが、今は説明板だけです。
ここから宿場に入ります。

江戸方見附跡の解説板
江戸方見附跡の解説板

少し行くと右手に橘樹(たちばな)神社があります。
ここはかつて牛頭(ごず)天王社という名前で、
この辺りの地名である天王町の由来になっています。

橘樹神社
橘樹神社

その先で帷子川を渡る橋が帷子橋です。
帷子川がここを流れるようになったのは戦後の事で、
以前はもう100m程先に帷子橋がありました。

帷子橋
帷子橋

商店街を抜けると相模鉄道の天王町駅があります。
相模鉄道はもともと
現在のJR東日本相模線(茅ヶ崎-橋本)を運行していた会社で、
1921年に茅ヶ崎-寒川間が開業、1931年に橋本まで全通しました。
その後、1943年に神中鉄道(横浜-厚木-中新田口)を吸収合併しましたが、
1944年には軍需輸送の都合で茅ヶ崎-橋本間を国に買収されました。
その結果、現在の相模鉄道の路線網は
旧神中鉄道の路線から発展したものになっています。

天王町駅
天王町駅

旧東海道が天王町駅の下をくぐり抜けた先に小さな公園があります。
ここはかつて帷子橋があった場所で、
橋の欄干と常夜灯を模したモニュメントがあります。
広重の浮世絵にある新町橋はここにあった橋です。

旧帷子橋跡
旧帷子橋跡

木の橋を渡り賑わう宿場へと続く江戸時代の道を想像しつつ先へ進みます。

10:31 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月 7日

【三】横浜に呑まれた神奈川 後編

神奈川宿の旅は青木橋に着いたところで一旦帰宅し、
後日そこから再出発しました。
橋の袂に京急の神奈川駅があります。

神奈川駅
神奈川駅

京急の公式サイトによると、
この駅舎は清水の舞台をイメージした建物だそうです。
「神奈川宿歴史の道」の道筋に位置しているからだそうです。
でも、どの辺が清水の舞台なのかわからない上に
神奈川宿と清水寺は関係ないと思います。

神奈川駅
反対側から見た神奈川駅。

青木橋を渡って反対側から見てみましょう。
清水以前にそもそも舞台になっていない気がします。
電車は800形の各駅停車(たぶん品川行き)です。

国鉄神奈川駅跡地付近
電車がいる辺りにかつて国鉄の神奈川駅がありました。

この写真は神奈川駅を出て横浜駅に向かう京急の電車です。
ちょうど今電車がいる辺りに、かつて国鉄の神奈川駅がありました。

1872年に開業した日本最初の鉄道は新橋-横浜間の路線でした。
当時の新橋駅は現在の汐留シオサイトの所にあり、
当時の横浜駅は開港場に程近い現在の桜木町駅でした。
そして、ここ神奈川宿には神奈川駅が設けられました。
後にこの路線が西へ延長され関西の鉄道と接続される時、
海に向かって飛び出した位置にある横浜駅は本線から外れてしまいました。

その後紆余曲折あって、結局1915年に本線上に新しい横浜駅を作り、
それまでの横浜駅を桜木町駅に改名しました。
この新しい横浜駅が1928年に今の位置に移転したら
あまりにも神奈川駅と接近しすぎているということで、
神奈川駅が廃止されました。

現在の横浜駅周辺は、かつての宿場町である神奈川区です。
1858年に日米修好通商条約が締結された時点では、
開港場は神奈川湊になる予定でした。
しかし、実際の開港場は敢えて神奈川を避け、
半農半漁の寒村、横浜村に変更されました。
現在の横浜市中区の辺りです。

横浜市役所も関内駅に近いのだし、
今の横浜駅の位置なら駅名は神奈川の方が自然なわけですが、
どうしても本線上に「横浜」という名の駅を置かねばならなかったのは、
県庁も市役所も抱える近代的な新興都市が
本線上の主要駅というある種の「代表権」を
江戸時代の宿場町に持って行かれてはたまらないと考えたからでしょうか。

さて、続きを歩きましょう。
品川から(実は泉岳寺から)ずっと一緒だった京急とも神奈川でお別れです。
青木橋を渡った先の、ビルの谷間にある細い道が旧東海道です。

青木橋を渡ると正面に三宝寺が見えます。
大きな台に載った驚きの建物です。
よく見ると左下の建物と渡り廊下でつながっています。

三宝寺
画面中央、台の上にあるのが三宝寺。

左下のビルは旧東海道に面しています。
ちゃんと正面に三宝寺と書いてあります。

三宝寺の下のビル
三宝寺の下にあるビルの旧東海道側。

その隣は大綱金刀比羅神社です。
ここにはかつて江戸から7番目の一里塚がありました。

大綱金刀比羅神社
大綱金刀比羅神社。後ろに三宝寺が見えます。

この先から道は上り坂になります。

広重の絵の場所
広重の絵の場所

歌川広重の「東海道五十三次」では、
神奈川宿の風景としてこの場所が描かれています。
広重の絵では道の左手に茶屋が並び、その裏手はすぐ海になっています。
今更東海道なんて言っても寺社くらいしか残っていないのでしょうが、
品川宿などそれでも雰囲気作りに力を入れています。
お洒落な港町のイメージを大切にする横浜市は、
どうやら古臭い江戸時代の宿場町には興味がないようです。

坂の途中に田中家という料亭があります。

田中家
田中家

広重の神奈川宿の絵をよく見ると、
「さくらや」という看板を掲げた旅籠があります。
そのさくらやの現在の姿がこの田中家です。
田中家のウェブサイトを見ると「御利用法」という項目があり、
予約から当日の事まで流れがざっと説明されています。
なかなか興味深いサイトです。

坂を上りきると、右手に神奈川台関門跡の碑があります。
鶴見橋関門とともに横浜警備のために設けられた関門の跡です。

神奈川台関門跡の碑
神奈川台関門跡の碑

ここで神奈川宿は終わりです。
横浜ですから江戸時代の宿場町の雰囲気はあまり期待していませんでしたが、
それにしてもほぼ現代の大通りと静かな住宅街に終始した感ありです。
次の保土ヶ谷宿の入り口までは2km程です。

06:20 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年5月 6日

【三】横浜に呑まれた神奈川 前編

八丁畷駅を過ぎて暫く行くと、市場上町という交差点があります。
左を見ると京急の踏切があります。
何の案内もありませんが、ここで川崎市は終わり。
地図で見ると縦に長い川崎市を横に通り抜けたので、
結構呆気なく通り過ぎてしまいました。
ここから横浜市鶴見区です。
静かな住宅街を歩いて行くと、左側に市場村一里塚があります。
江戸から5番目の一里塚です。

市場村一里塚の碑
市場村一里塚の碑

後で気付いたのですが、これは碑で、一里塚本体ではありません。
どうも不勉強でいけませんね。

その先、鶴見川橋で鶴見川を渡ります。
鶴見川橋を渡った所に鶴見橋関門旧蹟碑があります。

鶴見橋関門旧蹟碑
鶴見橋関門旧蹟碑

1859年に横浜港が開港すると
生麦事件など外国人が殺傷される事件が頻発したため、
横浜周辺にいくつもの関門や番所を設けて警備を強化しました。
東海道上では神奈川宿の出入り口に当たる鶴見と神奈川台に関門が、
また川崎宿から保土ヶ谷宿の間に20箇所の見張り番所が設けられました。

さらに進むと沿道はだんだん賑やかになり、
やがて京急鶴見駅とJRの鶴見駅の前に出ます。
旧東海道は京急鶴見駅の所で高架の線路をくぐり、寂れた商店街を進みます。
商店街を抜けると、六郷橋で別れた国道15号と交差します。
そこにJR鶴見線の国道駅があります。

国道駅の改札口
国道駅の改札口

国道駅は昭和初期の風情が漂う駅として知られています。

本来はここで国道15号を横切って進まなければいけないのですが、
私は誤ってここから国道15号を進んでしまいました。
本来の道はそこから2km弱進んだ東海道本線の貨物線の下で
国道15号と合流します。
そして、そのすぐ先から神奈川区に入ります。

今回は少々訳あって、
川崎宿出発が午後2時半とかなり遅くなってしまいました。
しかも撮影の都合で六郷橋の川崎側から歩き直しています。
そのため神奈川宿の入り口まであと数百メートルの地点で
時刻は既に4時半を過ぎていました。
これでは予定の郵便局に5時までに着く事ができません。
そこで、例によって現代人に戻り、子安駅から京急に乗ります。
(京急鶴見駅の下の自販機で飲み物を買った時点で現代人でしたが)
ここから2つ先の仲木戸駅までワープです。

子安駅
子安駅

今回は横浜西神奈川郵便局です。
国道1号沿いにあります。

横浜西神奈川郵便局
横浜西神奈川郵便局

横浜西神奈川郵便局の風景印
横浜西神奈川郵便局の風景印

横浜西神奈川郵便局の風景印は
歌川広重「東海道五十三次」の神奈川とみなとみらい21地区のビル群です。
切手は「神奈川県の花」のバラです。
横浜市の花がバラなのでこの切手を選びました。

風景印をもらったら電車で子安駅まで戻り、続きを歩きます。
子安駅から国道15号を2km程進むと、滝の橋という橋があります。

滝の橋
画面下の小さな橋が滝の橋。左が江戸方。
上を通るのは首都高速神奈川1号横羽線。
画面奥は江戸時代は海でした。

かつてこの橋の江戸側に神奈川本陣、京都側に青木本陣があり、
橋の袂には高札場もありました。
今は何の痕跡もありません。
現在の滝の橋は1966年に架けられました。
下を流れる滝の川沿いに遊歩道が整備されています。

滝の橋の先200m程の右手に宮前商店街の入り口があります。
日本橋からのお付き合いだった国道15号とはここでお別れして
商店街の方へ進みます。
なお、国道15号はその先300mくらいの所にある青木通交差点で
国道1号と合流して終わっています。

宮前商店街入り口
宮前商店街入り口

商店街といってもそんなに商店が集中しているわけでもないようです。
長さは200m程。抜けた先に青木橋があります。

青木橋
青木橋

青木橋は国道1号がJRと京急の線路を跨ぐ橋です。
ここに着いたのは午後6時。一旦帰宅です。
話も長くなったのでここまでを前編とします。

15:56 | カテゴリー:東海道スタンプラリー