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2008年6月29日

【八】涙雨の大磯 後編

大磯宿を出るとすぐ松並木が始まります。
この先に伊藤博文と吉田茂の旧邸があります。
「バスで駅まで行って電車に乗る」とか、
「近所のスーパーへ買い物に行く」という事を考えなければ
とても素晴らしい住環境です。

大磯の松並木
大磯の松並木

大磯の松並木で最も高い松
大磯の松並木で最も高い松

写真右の背の高い松は大磯の松並木で最も高い松の木です。
高さは25m、樹齢は約150年です。

切り株の年表
切り株の年表

こちらはマツクイムシにやられてやむなく切り倒した松です。
樹齢217年。この木が生きてきた時代の主な出来事を
その年の年輪の所に書き込んで歴史年表にしてあるのですが、
表面が汚れて読み辛くなってしまっているのが残念です。

ユリとアジサイ
ユリとアジサイ

アジサイに続いてユリが登場。沿道は夏の花で賑わいます。
街道沿いではありませんが大磯駅の近くでサルビアも見かけました。

城山公園前交差点
城山公園前交差点

松並木を抜けて1km余り、城山公園前交差点で旧東海道は右に分かれます。
ちなみに、この先の海岸沿いに有名な大磯ロングビーチがあります。

城山公園の前を通り過ぎる
城山公園の前を通り過ぎる。

城山公園はその名の通り中世の城跡です。
旧東海道は公園の前を通り抜け、次の分岐点を直進です。

城山公園付近の歩道
城山公園付近の歩道

この付近の歩道は、表面に小石を敷き詰めた凝ったものです。
さざれ石交差点の所で砂利が大磯の特産だと言いました。
恐らくそれを生かしたデザインなのでしょうが、
表面がつるつるで滑りやすくなっています。しかもここは坂道です。
偉い人は雨の日にこんな所を歩かないとは思いますが、
大磯の特産品のおかげで怪我をしたなんて事になる前に
直した方がいいと思います。

本郷橋
本郷橋

城山公園を過ぎた所の分岐点のすぐ先に本郷橋があります。
1927年に架けられた古い橋で、かながわの橋100選に選ばれています。
ちょっと調べてみたところ、ここまでに渡った橋の中では
川崎宿手前の六郷橋、藤沢宿内の遊行寺橋、
平塚市の入口に架かる馬入橋が選ばれています。
もう一つ、横浜市に入った所にある鶴見川橋もそうなのですが、
選出後に架け替えられており現在の扱いは不明です。
神奈川県のサイトにある一覧表には掲載されたままなので
外されたわけではなさそうです。

江戸から十七里のプレート
国府本郷一里塚跡にある「江戸から十七里」のプレート

本郷橋の先は少し上り坂になっています。
そして、橋から550mの辺りの路面に
「江戸から十七里」のプレートが埋め込まれています。
ここに国府本郷の一里塚があったのですが、
解説板は立てる場所がなかったのか200m程先にあります。

並木の向こうは国道1号
並木の向こうは国道1号

プレートの辺りから、旧東海道は国道1号と450m程並行し、
国府新宿交差点で合流します。

国府新宿交差点
国府新宿交差点

ところで、東西に長い大磯プリンスホテルの敷地の、
東の端のほぼ真北に本郷橋があり、西の端の真北はまだ先です。
広いんですね。

大磯町はここまで
大磯町はここまで。町内の歩行距離は約7kmでした。

国府新宿交差点から900m程国道を歩くと大磯町から出ます。
小田原はまだまだ先です。
小田原郵便局は夜7時まで開いているので今回は余裕ですけどね。

23:19 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年6月28日

【八】涙雨の大磯 中編

駅入口交差点から国道を100m進んだ左側、
秋葉神社脇の路地に入り20m程行くと、延台寺があります。
ここは先程化粧井戸の所で登場した虎御前が、
曾我兄弟を偲んで庵を結んだ跡と伝えられています。

延台寺山門
延台寺山門

山門の前に立てられた解説板を読むと、
「鎌倉時代の舞の名手、伝説の美女虎御前」とあります。
虎御前は遊女でした。
鎌倉時代の遊女は江戸時代のそれとは違い、歌舞などの技芸を厳しく躾けられ、
時には教養も身につけた知識人だったといいます。
化粧井戸の解説板にあった「大磯を代表する女性」というのは
どうやら「大磯屈指の才媛」という意味のようです。

延台寺本堂
延台寺本堂。階段の上に雨宿りする者1名。

延台寺本堂で雨宿りする猫
雨宿りする者にズームイン。

国道に戻って300m行くと、照ヶ崎海岸入口交差点があります。
ここで国道1号は右へ曲がるのですが、旧東海道は直進です。

照ヶ崎海岸入口交差点
照ヶ崎海岸入口交差点。画面中央から奥へ進む道が東海道。
日本橋まで68kmとありますが、旧東海道は約65kmです。

交差点の脇に素敵なお菓子屋さんを発見。
もちろん買いに行きます。
古い日本建築なのに入口の扉がまさかの自動ドアでびっくりしました。
(今時自動ドアで驚くなんてどんな田舎者だよ)

新杵
照ヶ崎海岸入口交差点の所にあるお菓子屋さん「新杵」

虎子まんぢゅうと西行まんぢゅう
大磯名物虎子まんぢゅうと西行まんぢゅう

左が虎御前に因んだ虎子まんぢゅう、
右が西行に因んだ西行まんぢゅうです。
たぶん虎子まんぢゅうは
この写真から時計回りに90度回した位置が正しい向きです。
どちらも真面目に作られた伝統的なお饅頭です。

旧東海道と国道の分岐点
左が旧東海道、右が国道1号です。

それでは照ヶ崎海岸入口交差点から続きを歩きましょう。
旧東海道は左、国道1号は右ですが、
国道の方にはもう合流地点のさざれ石交差点が見えています。
この合流地点にかまぼこ屋さんがあるのですが、
そこのさつまあげが絶品との評判を2箇所で聞いていたので
お土産に買って帰ることにしました。
ただ、私はあまり好きではないので
残念ながら本当に絶品かどうかは判断しかねます。(だめじゃん)
いや、その‥‥母が好きなんですよ、練り物は。

さざれ石交差点へ向かう途中で振り返る
途中で振り返ってみました。いい感じのカーブです。

さざれ石交差点までわずか120m。国道へ戻ります。
聞く所によると、この交差点の近くで
かつて「さざれ石」というお菓子が売られていたそうです。
大磯特産の砂利に見かけがそっくりだったことからこの名が付いたそうです。
(たぶん食感は似ていなかったと思います)
お菓子の事はわかりませんが、砂利については1つ言いたい事があるので
後でもう一度話します。

さざれ石交差点
さざれ石交差点

さざれ石交差点から約150m、国道脇の木立の奥に草葺きの屋根が見えます。
これが日本三大俳諧道場の一つ「鴫立庵」です。
ちょっと寄ってみましょう。

鴫立庵の入口
鴫立庵の入口

国道を歩いているとわかりづらいのですが、
この下に鴫立沢という沢があります。
西行の「山家集」にある

心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ

という作品が詠まれた場所です。
国道から鴫立庵への階段を下りると鴫立沢を見ることができます。

鴫立庵の前から見た鴫立沢
鴫立庵の前から見た鴫立沢。
国道の喧噪は水音に掻き消され、ここから既に別世界です。

鴫立庵
沢を橋で渡れば鴫立庵です。

鴫立庵
ほんの数十メートル先が国道とは思えない程静かです。

鴫立庵の座敷
座敷にはアジサイが生けられています。

わずか100円でいい物を見せていただきました。
自分に俳諧の才能が無いことを確認して東海道に戻ります。

湘南発祥之地碑
湘南発祥之地碑

この鴫立庵がある場所は、小田原の崇雪という僧侶が
西行寺を建立するべく草庵を結んだ場所です。
その際、この地の景勝を讃えて「著盡湘南清絶地」と刻んだ石碑を立てました。
大磯が中国湖南省にある湘南と呼ばれる地域に似ていることから
このような文言を刻んだそうです。
これが今日神奈川県西部沿岸地域を湘南と呼ぶことの始まりとされ、
国道沿いに「湘南発祥之地」の碑が立てられています。

国道を更に250m、大磯中学校前交差点の所に大磯宿上方見附跡があります。
ここにファミリーレストランがあります。
おなかが空いたので昼食にしましょう。

大磯宿上方見附跡
大磯宿上方見附跡

入口の張り紙によると、この店は私が訪れた1週間後に閉店だそうです。
大磯宿はここで終わりですが、大磯町はもう少し続きます。

07:23 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年6月27日

【八】涙雨の大磯 前編

平塚宿上方見附がある古花水橋交差点から大磯町に入ります。
平塚宿から次の大磯宿までの距離はわずか2.9km。
東海道全体で3番目に短い区間です。
藤沢から平塚までが長かったからここが短くなってしまったのでしょうか。

これより大磯町
平塚宿を出るとすぐに大磯町

国道1号を300m程進むと現在の花水橋があります。
橋の手前、進行方向左手に、JR貨物の相模貨物駅があります。
1971年に平塚駅の貨物取り扱い業務を分離して新設された駅です。
ウェブ上で全国の地図が見られるサイト「Mapion」の駅名・路線名検索で
「相模貨物」と入力したら出ませんでした。

相模貨物駅
相模貨物駅

一応Mapionの名誉のために言っておくと、
施設名・地名検索で「相模貨物駅」と入力すれば見つかります。

右側の橋の袂には「平成の一里塚」なる物があります。
植えられた木は残念ながら木陰を提供できる程大きくありませんが、
旅の気分は盛り上がります。

平成の一里塚
平成の一里塚

橋の上からは、右前方に高麗山(こまやま)が見えます。
平塚の消防団の前からも見えた、広重の平塚の絵に登場する山です。

花水橋から見た高麗山
花水橋から見た高麗山

かつて高句麗からの渡来人がこの周辺に住んでいたことが
高麗山という名前の由来と言われています。
渡来人は後に武蔵国に移住し、高麗郡が設置されました。
現在の埼玉県日高市、飯能市の辺りです。
高麗山には広葉樹の自然林が残り、紅葉の名所としても知られています。

花水橋から国道をさらに700m弱進むと、化粧坂(けわいざか)交差点です。
藤沢宿から歩いて来たこの日はここで一旦終了。
本当は大磯郵便局まで行ったのですが、
間違えて化粧坂交差点から先も国道1号を進んでしまいました。
実際は化粧坂交差点から右に入る化粧坂が旧東海道なので、
後日ここから歩き直しました。

化粧坂交差点
化粧坂交差点

化粧坂
化粧坂。左手前のアジサイが咲いている所の奥に化粧井戸があります。

保土ヶ谷・戸塚近辺の難所と違い、化粧坂は緩やかな坂です。
入って少し行くと左手に化粧井戸があります。
虎御前がこの井戸で水を汲んで化粧をした事に由来すると言います。
何も化粧専用だったわけでもなかろうに強引なネーミングだと思ったら、
ちゃんと理由がありました。
大磯は海辺の街なので、井戸を掘っても出てくるのは大抵塩水で、
鎌倉時代頃は真水の出る井戸がここだけだったのだそうです。
「化粧に使える水が出る唯一の井戸」という意味でした。

化粧井戸
化粧井戸

この井戸の解説板に
「当時の大磯の代表的女性『虎御前』もこの近くに住み‥‥」とあるのですが、
一体どんな「代表」だったのでしょう。
(この謎は後で解けます)

虎御前と言えば日本三大仇討ちの一つ、曾我兄弟の仇討ちの、
曾我兄弟の兄・十郎祐成の恋人です。
建久4年(1193年)5月28日、曾我兄弟は父の仇討ちに成功するも、
兄の十郎はその場で斬り殺され、弟の五郎も捕らえられて後日処刑されます。

旧暦5月28日に降る雨を「虎が雨」と言います。
虎御前の涙雨という意味です。
歌川広重の東海道五十三次でも、
大磯の絵は「虎ヶ雨」と題された雨降りの絵です。
私が化粧坂を歩いた日は旧暦の5月20日。
厳密には「虎が雨」ではありませんが、雨が降っていました。
間違えて国道の方を歩いたのは梅雨入り前、新暦の方の5月だったので、
この時期に歩き直せて良かったと思います。

化粧坂にあった広重の絵
化粧坂に歌川広重の「虎ヶ雨」がありました。

その先すぐの所に一里塚跡があります。
日本橋から16里、62.8kmです。

化粧坂の一里塚跡
化粧坂の一里塚跡

解説板によると高さは約3mで、
上方に向かって右の塚にせんだん、左の塚に榎が植えられていたそうです。

緩やかな化粧坂を上り切った先に東海道本線の線路があります。
以前はこの道が国道でここに踏切があったそうです。
踏切廃止後も歩行者や自転車が通れるように地下道が造られています。

化粧坂の先にある地下道の入口
化粧坂の先にある地下道の入口。左の塀の向こうが東海道本線。

地下道を抜けた先の道は、両側に大きな松の木が何本かありました。
この辺りが大磯宿江戸方見附跡です。

大磯宿江戸方見附跡付近
大磯宿江戸方見附跡付近

化粧坂交差点からの道は、東海道本線の所で車道が切れているため
車の通りが少ないのどかな道です。
今の時期はアジサイがたくさん咲いています。

大磯宿のアジサイ
江戸方見附の先に咲いていたアジサイ

化粧坂交差点から800m、三沢橋東側交差点で国道1号に戻ります。

三沢橋東側交差点
三沢橋東側交差点

国道に合流して300m程進むと、駅入口交差点があります。
この交差点の所に大磯郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。

大磯郵便局
大磯郵便局

大磯郵便局の風景印
大磯郵便局の風景印

大磯郵便局の風景印は
鴨立庵、大磯海岸の海水浴場、高麗山の遠景です。
切手は小田原城の銅門(あかがねもん)です。
小田原はまだ先ですが、小田原城の切手が2種類あるので
1つ手前の大磯でも使いました。

先程の駅入口交差点を右に曲がって上り坂を250m程行くと、
JR東海道本線の大磯駅です。
現在の駅舎は1925年落成。
瓦屋根ですが、入口の軒の上にある縦長の窓が洋風で、
和洋折衷な感じの外観です。

大磯駅
大磯駅

内部は洋風です。
写真は改札前の天井で、画面左の3枚の窓がある所が正面の壁です。

大磯駅改札前の天井
大磯駅改札前の天井

話が長くなったので、ここで一区切りとします。
駅入口交差点まで戻って東海道の続きを歩きましょう。

07:47 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年6月 2日

【七】歌川広重が見た平塚

目の前には相模川と、そこに架かる馬入(ばにゅう)橋。
ここで茅ヶ崎市から平塚市に入ります。

これより平塚市
これより平塚市

馬入橋の途中に国道1号の距離標があります。
日本橋から62kmですが、旧東海道はこの辺りで約58kmです。
隣を走る東海道本線も相模川を渡る橋の上で東京駅から62kmです。

国道1号62kmポスト
国道1号は相模川の所で日本橋から62kmです。

東海道本線62kmポスト
東海道本線も相模川の所で東京駅から62kmです。
電車は普通列車小田原行き。最新型のE233系。

橋を渡ると平塚の市街地に入る所で道が二手に分かれます。
国道1号は右へ、旧東海道は直進です。
この近くに江戸から15番目の一里塚がありましたが、今は説明板だけです。

平塚市街の入口
平塚市街の入口。国道1号は右へそれ、旧東海道は直進します。

そこから1km程進むと、JR平塚駅に通じる広い道を横切ります。
そして、さらに進むこと600m、平塚宿江戸方見附があります。
石垣の上に盛り土をして竹矢来を組んだバリケードが再現されています。

平塚宿江戸方見附
平塚宿江戸方見附

見附から100m程の所に大きなクスノキがあります。
1895年3月28日、当時ここにあった平塚小学校の校庭に種がまかれ、
6月15日に双葉が出たという記録が残っているそうです。

平塚市見附町のクスノキ
平塚市見附町のクスノキ

クスノキのそばに崇善公民館があります。
帰宅後に調べたところ、1950年にはここで平塚市議会が開かれたそうですが、
もともとは何だったのか、いつ頃の建物なのかよくわかりません。

崇善公民館
崇善公民館

そこからさらに300m進むと、平塚本宿(ほんしゅく)郵便局があります。
今回はここで風景印を押してもらいます。

平塚本宿郵便局
平塚本宿郵便局

平塚本宿郵便局の風景印
平塚本宿郵便局の風景印

平塚本宿郵便局の風景印は
七夕竹飾り、高麗山、旧東海道を表す松並木、富士山の遠望です。
切手は慶事用50円切手です。

平塚で見つけたアジサイ
平塚で見つけたアジサイ

日本橋から春の花を愛でつつ旅をしてきましたが、ここで夏の花の登場です。

郵便局からさらに300m進むと、平塚市消防団第一分団があります。
ここは西組問屋場跡です。
平塚宿は一般の旅行者より大名などの宿泊が多い宿場でした。
そのためでしょうか、参勤交代が行われるようになると業務が激増し、
1箇所の問屋場では対応しきれなくなりました。
そのため、平塚宿の東にあった八幡新宿を平塚宿に編入し東組問屋場を増設、
従来からの問屋場を西組問屋場として対応しました。

平塚市消防団第一分団
平塚市消防団第一分団。西組問屋場跡です。

1945年7月16日、多くの軍需工場があった平塚市が空襲の標的となりました。
当時の市域は平塚駅から概ね2kmの範囲でしたが、
その面積の約8割を消失する甚大な被害を受けました。
恐らく江戸時代の宿場町の名残も、空襲でほとんど消失したのでしょう。
そんな事を考えつつ、消防団の建物に近付こうと歩道橋を渡ると
大磯へ続く道の向こうに見覚えのある山影が見えます。

高麗山
歩道橋から見た高麗山

あれはまさしく、東海道五十三次の平塚に登場する高麗山(こまやま)です。
日本橋から東海道を歩いてきて、ここで初めて感動しました。
歌川広重さん、あなたの描いた風景は170年の間にすっかり変わりましたが、
高麗山だけは変わりませんよ!
(神奈川台場の坂の事は忘れてください)

シャッターに広重の平塚
消防団のシャッターに歌川広重の平塚の絵がありました。

ここで少し寄り道をします。
消防団の所を右に曲がると、突き当たりに要法寺があります。
ここを左に曲がった先の右手、西仲町公園に「平塚の塚」があります。
そばに立てられた解説板によると、こんな謂れがあります。
857年、桓武天皇の曾孫に当たる女性政子が東国へ向かう旅をした折り、
この地で亡くなり、埋葬されて塚が築かれました。
その塚の上が平らになったので「ひらつか」と人々から呼ばれるようになり、
「平塚」という地名の元になったといいます。

平塚の塚
平塚の塚、というよりむしろ平塚。

柵の中は盛り土で、確かに上が平らです。
しかし、気持ちはわかりますが「平塚の塚」という名前はどうでしょう。
現実にはこれ自体が「平塚」なのに、
この名前ではどこかに「平塚の平」も存在しそうです。

しかも、帰宅後に調べてみると、
解説板で政子の父親即ち桓武天皇の孫とされる高見王は
存在したかどうかも怪しい謎の人物だそうです。

高見王がいなければ政子もいなかったことになります。
(いや、別の人物の娘として政子自身は存在したのかもしれません)
そうなると、地名の根拠もなくなってしまいます。
(いえ、政子の墓でなくても平らな塚があるのは事実です)
平塚市はどうなってしまうのでしょう。
(今更街は無くなりません)
大丈夫か、平塚。
(大丈夫です)

右が東海道
平塚市消防団第一分団前の分岐点。右が旧東海道です。

さて、消防団の所まで戻って続きを歩きましょう。
ここまで歩いてきた道は、引き続きまっすぐ西を目指します。
旧東海道は消防団の前でこの道から右へ分かれます。
そして、300m余り住宅街を進むと、
平塚市街の入口で別れて北へ迂回した国道1号と合流します。
ひょっとして、七夕祭りの時に交通規制がかからないように
こうして中心街を避けているのでしょうか。

国道1号に合流
国道1号に合流。右が旧東海道。奥が東京方面。東京まで67kmです。

国道1号に合流して100m、古花水橋交差点に出ます。
ここから300m余り先に花水川を渡る花水橋がありますが、
かつて川はこの辺りを流れており、交差点名に名残をとどめています。
先程消防団の前で分かれた道がまっすぐここまで来て合流します。
ここに平塚宿の上方見附があります。

平塚宿上方見附
平塚宿上方見附

平塚宿を出ると、平塚市もここで終わりです。次は大磯町に入ります。

21:50 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2008年6月 1日

【番外】茅ヶ崎の左に富士は見えるか

国道1号に戻って間もなく茅ヶ崎市に入りました。
ここは東海道本線辻堂駅の北800m程の場所です。

これより茅ヶ崎市
茅ヶ崎市に入ります。松並木です。

時折緩い曲線を描いて長く続く道は、
車道が2車線、車道と分離された歩道、街路樹という構成です。
規模は大きすぎず小さすぎず、まさに現代の街道といった風情です。
茅ヶ崎市に入ってすぐに高い松の木がありました。

高い松の木
茅ヶ崎市の入口にある高い松の木

藤沢宿と平塚宿の間には、
四ツ谷、牡丹餅、南湖(なんご)、八幡の4つの立場がありました。
四ツ谷はもう過ぎてしまいましたが、
藤沢市内のちょうど国道1号に戻った辺りです。
牡丹餅と南湖は茅ヶ崎市内です。
八幡はよくわからないのですが、今の平塚駅の近くではないかと思います。

大乗仏教の経典の一つである華厳経に、
善財童子が文殊菩薩の命により53人の師を経て
普賢菩薩の所で悟りを開いたという一節があります。
一説によると、東海道の宿場の数はこれに因んで53箇所にしたのだとか。
となると、必ずしも宿場の配置が
実際の交通事情に合致しない所もあったことでしょう。

宮-桑名間の海上七里を除くと、東海道の宿場間の平均距離は8.8kmですが、
実際は最長が小田原-箱根間の16.5km、最短は御油-赤坂間の1.7kmで、
かなりばらつきがあります。
また、平坦な道もあれば急坂の続く難所もあります。
そんな事情から、宿場間には立場や間の宿が設けられることが多々あります。

ところが、立場や間の宿には、
旅行者の宿泊禁止などの厳しい制限がありました。
宿場町を保護するためです。
宿場は道中奉行の管轄です。
道中奉行は大目付や勘定奉行が兼任したので、
宿場町の保護にはひょっとして利権が絡んでいたのでしょうか。
だとすると現代における道路族みたいなものですね。
この先通る予定の菊川は、元は宿場町だったのが
徳川家康による宿駅整備の際に間の宿に降格されています。
不運ですね。

藤沢-平塚間は13.7kmで、日本橋から箱根までの間では、
小田原-箱根間16.5km、大磯-小田原間15.6kmに次ぐ3番目に長い距離です。
速い人でも2時間半はかかる距離ですから立場が発展したのでしょう。

茅ヶ崎で見かけたハーフティンバーの建物
茅ヶ崎で見かけたハーフティンバーの建物。
写真にはありませんが奥にもう1棟建っています。

本村というバス停の所に素敵なハーフティンバーの建物がありました。
飲食店でしょうか。

茅ヶ崎一里塚
茅ヶ崎一里塚

茅ヶ崎市に入ってから歩くこと3.6km、
サティの前を通り過ぎ、茅ヶ崎駅に近付くと、道の左側に一里塚があります。
日本橋から14里、約55kmです。

茅ヶ崎で見かけた花
茅ヶ崎で見かけた花

ここでも春の花が咲いています。

一里塚から、茅ヶ崎駅北口の賑わいを通り抜けて1.3km、
茅ヶ崎茶屋町郵便局があります。
ここに東海道の名所に因んだ風景印があるので押してもらいます。

茅ヶ崎茶屋町郵便局
茅ヶ崎茶屋町郵便局

茅ヶ崎茶屋町郵便局の風景印
茅ヶ崎茶屋町郵便局の風景印

茅ヶ崎茶屋町郵便局の風景印は
富士山の遠望、鳥井戸橋、南湖の左富士の碑です。
今回は通常はがき(スズメ)を使用しました。
実は歌川広重は南湖の左富士も描いているのですが、
茅ヶ崎は宿場町ではないので東海道五十三次の作品群に含まれず、
今回使用している東京国立博物館の絵はがきにも残念ながら入っていません。

茅ヶ崎茶屋町郵便局の先で道は大きく右に曲がり、
その後400m程北西に進みます。
この辺りがかつて立場があった南湖です。
南湖付近では上方に向かって左に富士山が見えます。
これが南湖の左富士です。
このような場所はここ南湖と吉原の2箇所だけです。
現在は沿道に建物が並び富士山が見えにくくなりましたが、
幸い東西方向に流れる千ノ川を渡るので、
ここに架かる鳥井戸橋の上で西側の視界が開け、
天候によっては富士山が見えます。

鳥井戸橋
鳥井戸橋

南湖の左富士の碑
南湖の左富士の碑。鳥井戸橋の袂にあります。

石原橋から富士(の方向)を望む
石原橋から富士(の方向)を望む

これは鳥井戸橋のすぐ西側に架かる石原橋から西の方を見たところです。
今日は見えません。
なお、石原橋を通る道は「左富士通り」と命名されています。

その先で道は左に曲がり、再び西へ向かいます。
そこから300m、小出川を渡る手前に旧相模川橋脚があります。

旧相模川橋脚
旧相模川橋脚

現在相模川はここから1.5km程西を流れていますが、
鎌倉時代は河口を数本持ち、その本流がこの辺りを流れていたそうです。
1923年の関東大震災の際、地下にあった7本の柱が地上に出現。
調査の結果1198年にここに架けられた橋の橋脚と判明しました。
しかし、何だか様子が変です。近付いてよく見てみましょう。

近くで見た旧相模川橋脚
近くで見た旧相模川橋脚

あの、これ木じゃないみたいなんですけど‥‥。

近くにある説明板を読んだら、これはレプリカでした。
本物は朽ちないようにこの下に埋めてしまったそうです。
できれば掘り出して博物館に展示して欲しかったのですが、
そんな事をする場所も予算も無いのかもしれません。

茅ヶ崎の出口の道祖神
茅ヶ崎の出口の道祖神

小出川を渡って1km余り、
現在の相模川を渡る馬入橋の手前に道祖神がありました。
ここで茅ヶ崎市は終わりです。
すぐに平塚市ですが、宿場の江戸方見附までは2.5km程あります。

21:47 | カテゴリー:東海道スタンプラリー