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2009年1月31日

【十一】三島へ続く石畳 其の四 富士見平・笹原新田編

腰巻地区の石畳が終わり、国道1号に出ました。
しかし上長坂はまだまだ終わりません。100m先から続きがあります。

腰巻地区の石畳から国道へ
腰巻地区の石畳から国道へ

ここから浅間平(せんげんだいら)地区の石畳が始まります。
石畳がよく残っていた部分が43m、少し残っていた部分が135m、
ほとんど石畳が失われたいたため全面的に敷き直した部分が152m、
合わせて330mの石畳の道です。

浅間平地区石畳の入り口
浅間平地区石畳の入り口

浅間平地区石畳の出口
浅間平地区石畳の出口

この辺りは富士見平と呼ばれ、晴れていれば富士山がよく見えます。
浅間平地区石畳の出口に松尾芭蕉の句碑があります。

松尾芭蕉の句碑
松尾芭蕉の句碑

霧しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

今日は曇っていて見えないので、面白いということにしておきましょう。

さて、ここも旧東海道が国道を横切っていますが、
横断歩道は離れた場所にあるので少し回り道になります。
国道の反対側に渡ると、まずは下り階段。
この先に上長坂地区の石畳があります。
(坂の名前は腰巻地区からずっと上長坂ですが)

富士見平から上長坂地区の石畳へ
富士見平から上長坂地区の石畳へ

ここは石畳がほぼ完全に残っていた部分が37m、
石畳が比較的よく残り、若干の石を補充した部分が116m、
残っている石がやや少なかった部分が52m、
石がほとんど残っておらず全面的に新しく敷き直した部分が165m、
合計370mです。

上長坂地区の石畳
上長坂地区の石畳

その先はまたちょっとだけ国道に出ます。
もともと箱根峠から三島へ向かってまっすぐ下る道があった所へ、
自動車の通行のため蛇行して勾配を緩くした国道1号を通したため、
こうして石畳と舗装道路が交互に続きます。

上長坂地区石畳の終わり
上長坂地区石畳の終わり

石畳風の歩道を150m程歩くと旧東海道は左へ分かれます。
旧道に入る部分は砂利道ですが、すぐに笹原地区の石畳が始まります。

この先笹原地区の石畳
この先笹原地区の石畳

この地区の石畳は1997年に整備されました。
石畳がよく残っていた部分が145m、
石は残っているが、痛みが激しく位置がずれた石も多かった部分が92.7m、
全面的に敷き直した部分が142.3m、計380mです。

笹原地区の石畳
笹原地区の石畳

農地の中の石畳を歩いていくと、左側に笹原一里塚があります。
江戸から27里(106km)です。
なんだか木がいっぱい生えています。
そばにある道標によると三島宿まで6km。
時刻はお昼少し前ですから、夕方までには余裕で間に合いそうです。

笹原一里塚
笹原一里塚

一里塚から50m程で国道1号を横切ります。
上長坂地区の石畳はここまでです。

笹原一里塚前から石畳終点を見る
笹原一里塚から石畳終点を見る

側溝の蓋に歌川広重の三島の絵がありました。

側溝の蓋に広重の三島
側溝の蓋に広重の三島

国道を渡ると笹原新田の集落です。

国道の向こうに笹原新田の集落
国道の向こうに笹原新田の集落

集落に入るといきなり急な下り坂になります。下長坂です。
集落入り口の解説板によると、平均20%、最大40%の急勾配だそうです。
箱根東坂の七曲りが10.1%でも結構きつかったので、
ここを上るのはかなり大変でしょう。

笹原新田の集落
笹原新田の集落

これが20%の勾配です。
一般的な4ドアの乗用車は
ホイールベース(前輪中心から後輪中心までの距離)が2.7mですが、
それがこの坂を走ると前輪と後輪の高低差が約50cmになります。
最急勾配の40%では高低差は約1mです。

20%の勾配
20%の勾配

これだけの急坂ですから、米を背負って上ると
背中からの熱や蒸気で蒸されて強飯になるということで、
「こわめし坂」の別名があります。
これでごはんが炊けるならエコロジー坂‥‥いえ、なんでもないです。

この下長坂の途中にかつて念仏石という石があったそうです。
横90cm、縦120cmの大きな石なのですが、
昭和20年代に大雨の土砂崩れで埋もれて以来行方不明だそうです。
1996年には発掘調査が行われましたが、それでも見つからなかったとか。
単純に上から土砂を被ったのではなく、石の下の土砂も流され、
思いの外深く地中に埋まっているのでしょうか。
或いは最初から無かっ‥‥いえ、なんでもないです。

三ツ谷新田の道標
三ツ谷新田の道標

笹原新田の集落から下長坂の急勾配を下ること600m、
2車線の広い道に合流する所が三ツ谷新田です。
ここは標高約300m。三島まであと5.3km。
標高846mの箱根峠から35mの三島まで
高さで3分の2くらい、距離で半分少々進みました。

06:24 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年1月30日

【十一】三島へ続く石畳 其の三 小枯木坂・山中新田編

大枯木坂から国道1号に出ました。

国道1号
国道1号

少し行くと三島市の標識が見えました。
箱根峠から函南町と三島市の境界を歩いてきましたが、
この先は完全に三島市に入ります。

三島市
三島市

大枯木坂の出口から200m、左に下りていく階段があります。
小枯木坂の始まりです。

小枯木坂の入り口
小枯木坂の入り口

ここから山中新田の集落まで願合寺地区の石畳が続いています。
1972年にこのうちの255m、1995年に188mを修復、
多くの石が失われていた残りの部分にも石を補充して、
全長721mの石畳の道で江戸時代の姿を再現しています。

小枯木坂の石畳と杉並木
小枯木坂の石畳と杉並木

小枯木坂に入ってすぐ、大きな石が横に並んだ部分があります。
一本杉石橋です。
この下に石を積んで作った水路があり、この大きな石が橋になっています。
箱根西坂にはこのような石橋が全部で9箇所ありましたが、
現在見られるのはここと村上石橋の2箇所だけです。

一本杉石橋
一本杉石橋

石畳の終わりに雲助徳利の墓があります。
杯と徳利の下に「久四郎」という名が刻まれています。

杉の大木の前に雲助徳利の墓
杉の大木の前に雲助徳利の墓

西国大名の剣道指南役だった松谷久四郎は、
大酒飲みのために事件を起こして国を追われ、箱根の雲助になりました。
剣の達人で読み書きもできるため雲助仲間から頼りにされていましたが、
酒の飲み過ぎで命を縮めてしまいました。
これがその久四郎の墓と伝えられています。

雲助徳利の墓
雲助徳利の墓

初めは石原坂の手前、山中新田の一里塚の辺りにあったのが、
酒飲みの墓なので、いつの間にかふらふらとここまで来てしまったのだとか。

この近くに村上石橋があるはずですが見落としました。
ここで石畳は終わりですが、石畳風の歩道が30m続き、
その先で国道1号に出ます。

小枯木坂から国道1号への出口
歩道橋右下が小枯木坂から国道1号への出口。国道は手前が京都方面。

ここは山中新田の集落です。
少しの間集落の中を進みます。

山中新田の集落
山中新田の集落

国道1号は250m先で左に曲がりますが旧東海道はそのまままっすぐ進みます。
この少し手前に、石原坂の念仏石の所で名前が出た宗閑寺があります。

国道は左へ。旧東海道は直進
国道は左へ。旧東海道は直進。

国道から分かれた道は石畳風の舗装が100m程続きます。

石畳風の舗装
石畳風の舗装

その先で、先程の国道1号が左からやって来ます。
自動車が通る国道1号は勾配を緩くするため蛇行していますが、
旧東海道はこうしてショートカットしています。
国道を渡ると山中城跡があります。

国道を渡ると山中城跡
国道を渡ると山中城跡

山中城は後北条氏の小田原防衛の拠点でしたが、
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐で落城しました。
現在は国の史跡に指定され、公園として開放されています。

旧東海道から山中城跡へと続く階段
旧東海道から山中城跡へと続く階段

寄っていきたいのですが、三島に夕方までに着きたいのでまたにします。

この山中城跡のところから上長坂が始まります。
ここから350m先まで続く腰巻地区の石畳は1994年に整備されました。
このうち江戸時代の石畳がよく残っていたのは60m程で、
残りの部分は新たに石を補充して往時の姿を再現しています。
ここも願合寺地区同様両側に杉が植えられています。

山中城跡を過ぎた辺りの上長坂
山中城跡を過ぎた辺りの上長坂

石畳が終わり、道は一旦国道1号に合流します。
しかし、上長坂はこの先まだまだ続きます。

石畳の終わりから箱根方面を振り返る
石畳の終わりから箱根方面を振り返る

08:34 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年1月29日

【十一】三島へ続く石畳 其の二 石原坂・大枯木坂編

接待茶屋バス停前 山道の入り口
接待茶屋バス停前 山道の入り口

接待茶屋バス停のそばで国道1号を離れ、また山道に入ります。
ここに山中新田の一里塚があるはずなのですが、
いったいどこにあるやらわかりませんでした。
後で調べてみると、どうやらこの道の入り口左にある、
函南町接待茶屋と書かれた道標の後ろにあったようです。

道標の後ろが一里塚
道標の後ろが一里塚

そのすぐ先に徳川有徳公遺跡碑があります。
徳川有徳とは徳川吉宗のことで、
吉宗の法号(戒名)有徳院殿贈正一位大相国から来ています。
通常は「有徳院」とするはずで、
「徳川有徳」とする物は他に見たことがありません。

徳川有徳公遺跡碑
徳川有徳公遺跡碑

享保元(1716)年、紀州藩主から征夷大将軍になるべく江戸へ向かう吉宗は、
石割坂にあった茶店で休憩しました。
その際、茶店の主人が馬の世話をよくした事に吉宗が喜び、
永楽銭を与えました。
以後、紀州藩主は参勤交代の際この茶店で休み、
代金を永楽銭で支払うようになったと伝えられています。
また、その頃からこの茶店を「永楽茶屋」と呼ぶようになったそうです。

以上は2007年4月1日発行の「広報みしま」に書かれている事です。
しかし、永楽銭(永楽通宝)は
慶長13(1608)年に通用禁止になっていますから、
なぜここで永楽銭が出てくるのか、その理由を知りたいところです。

そして徳川有徳公遺跡碑の向かいには、兜石坂から移動された兜石があります。

兜石
兜石

兜を伏せたような形であること、
また、豊臣秀吉が小田原征伐の時、
休憩の際に兜を脱いでここに載せたと伝えられていることから
兜石と呼ばれています。
しかし、小田原征伐は天下統一に向けての最後の戦です。
一兵卒の頃ならともかく、既に大軍を率いる指揮官になっていた秀吉が
脱いだ兜をこんな所へひょいと置くとは考えにくいです。

では、山道を進みましょう。50m程行くと分岐点があります。

施行平への分岐点
施行平への分岐点

ここを右へ行くと施行平(せぎょうだいら)です。
とても景色がいいらしいのですが、夕方までに三島に着きたいので
またの機会にして先へ進みます。
旧東海道は左です。
この辺りからの坂が石原坂(いしわらさか)です。
資料によっては、途中で2つに分けて箱根方を石荒坂、三島方を石原坂、
或いは箱根方を石割坂、三島方を石原坂、合わせて石荒坂とされています。
先程の永楽茶屋があった場所について、
三島市の広報には「石割坂」と書かれていました。
どれも同じような名前なので、
時代の流れと共にだんだんあやふやになったのでしょう。

この辺りも左の函南町側だけ笹が密集して生えています。

左側に笹
左側に笹

石原坂を少し進むと笹藪の中に入っていく道がありました。

笹藪の中に入る道
笹藪の中に入る道

藪の中には「明治天皇御小休阯」と刻まれた石碑がありました。
明治元(1868)年、東京へ向かう明治天皇が休憩した場所で、
当時は「ビンカの茶屋」という茶屋があったそうです。
今は何もありません。(笹はいっぱいありますけど)

明治天皇御小休阯の碑
明治天皇御小休阯の碑

暫く行くと、念仏石という大きな石がありました。

念仏石
念仏石

大きな石の手前に「南無阿弥陀仏 宗閑寺」と刻まれた石があります。
この先にある宗閑寺というお寺で
行き倒れの人々を供養して石碑を建てたらしいのですが、
そばにある解説板にも詳しい事は書かれておらず、
なぜこの場所を選んだのかはわかりません。

この辺りもずっと石畳が続いています。
左の函南町側は相変わらず笹藪です。右の三島市側は檜でしょうか。

念仏石付近の道
念仏石付近の道

石原坂に入って700m程で、急に視界が開けます。

石原坂の終わり
石原坂の終わり

ここで石原坂は終わりです。このすぐ下を国道1号が通っています。
その先はすぐ大枯木坂です。再び森の中へ入っていきます。

再び森の中へ
再び森の中へ

森に入るとすぐ分岐です。旧東海道は左です。
この辺りはまた杉が植えられています。

また分岐
また分岐

ほんの2~3分歩いたらまたすぐに視界が開けました。

また視界が開ける
また視界が開ける

草に埋もれていますがここも石畳があります。
よく見ると、この辺りの石畳はへりがまっすぐに揃えられています。

へりが揃えられた石畳
へりが揃えられた石畳

大枯木坂に入って400m程で民家の庭先に出ます。

坂の先に民家が見える
坂の先に民家が見える

その先の小枯木坂までの200mは道がなくなっているので、
左に曲がって国道に出ます。

箱根旧街道迂回路の道標
民家の庭先に出た所にある道標。
左の「山中城跡」の所に箱根旧街道迂回路と書かれています。

国道に出て大枯木坂は終わりです。
次の小枯木坂までちょっとだけ国道1号を歩きます。

大枯木坂から国道1号へ
大枯木坂から国道1号へ

12:57 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年1月28日

【十一】三島へ続く石畳 其の一 兜石坂編

静岡県に入りました。函南町(かんなみちょう)です。
現在の静岡県は、江戸時代には伊豆、駿河、遠江の3つに分かれていました。
ここは伊豆国だった場所です。

これより静岡県
これより静岡県

箱根峠交差点から国道1号を京都方面に100m進むと大きな駐車場があります。
箱根エコパーキングです。

箱根エコパーキング
箱根エコパーキング

駐車場に向かう歩道は石畳風です。

石畳風の歩道
石畳風の歩道

歩道は駐車場の脇を通って向こう側に抜けています。
入り口には木製の門があり、「箱根旧街道」の札が掛かっています。
現在駐車場になっている部分を、以前は旧東海道が通り抜けていたのでしょう。
足下に埋め込まれた表示によると、ここは関所から3km、
三島宿までは12kmだそうです。

駐車場の脇を抜ける道
駐車場の脇を抜ける道

250m程で駐車場を抜けます。トイレがあるのがありがたいですね。
出口の脇には静岡県の観光地図があり、
日本語、英語、簡体中国語、繁体中国語、ハングル、スペイン語で
「静岡県へようこそ」と書かれています。

駐車場出口
駐車場出口

駐車場を出た所の道標には「箱根関所跡 2.5km」と書いてあります。
あれ?
後で調べたら、復元された関所から旧道経由で駐車場出口まで2.5km、
箱根関所資料館から国道1号経由で駐車場入り口まで3kmでした。

この場所は国道1号から分岐する道路がある交差点です。
旧東海道は分岐する方の道路を進みます。

駐車場の裏から続く東海道
駐車場の裏から続く東海道

ここから暫くの間、函南町と三島市の境界に沿って進むことになります。
後で地図を見て確認したら、駐車場を出て30m程の所で
境界を跨いで三島市側に入っていました。
300m程進むと、左側の藪の中へ入っていく道があります。

藪の入り口
藪の入り口

入り口の脇にある道標によると、京都まであと100里だそうです。

是より京都百里
是より京都百里

かつてこの辺りには茨(いばら)が生い茂っていたため、
茨(ばら)ヶ平と呼ばれていたそうです。

藪の奥に入ると東屋があり、道が左右に分かれています。
旧東海道は右。ここから兜石坂です。
笹のトンネルの中へ入って行きます。
この辺りで再び境界を跨いで函南町側に戻ります。

右が旧東海道
右が旧東海道

兜石坂に入りました。道は下り坂です。
落ち葉に隠れて見えづらいですが、ここも石畳が敷かれています。

兜石坂
兜石坂

暫く進むと右側に杉が植えられていました。
道の右側が三島市、左側が函南町です。

右に杉林
右に杉林

その先左側に兜石跡の碑があります。
かつてここに兜石と呼ばれる大きな石がありました。
昭和の初め、近くを通る国道1号の拡張工事の際に邪魔になり、
別の場所へ移動されました。
だから、兜石坂なのに今は肝心の兜石がありません。

兜石跡の碑
兜石跡の碑

その先で、旧東海道は一旦国道に出ます。
ここで兜石坂は終わりです。

兜石坂から国道に出る
兜石坂から国道に出る

ここは国道1号のヘアピンカーブが始まる所です。
このカーブが旧東海道を切り取るように通っているのですが、
交通量が多く、歩道橋も横断歩道も無いので向こうへ渡れません。

兜石坂から出た国道の向こう側
兜石坂から国道に出た所で道の向こう側を見る。
恐らく元はあそこへ道が続いていたのでしょう。

再び国道と交差する位置まで、止むなく国道を歩きます。

国道1号のヘアピンカーブ
国道1号のヘアピンカーブ

国道に入って200m弱、ヘアピンカーブを半分とちょっと進んだ所に
接待茶屋バス停があります。
そこから道路の向こうを見ると、何やら小さな屋根が見えます。

国道の向こうの小さな屋根
国道の向こうの小さな屋根

かつてこの辺りに、バス停の名前の由来となった接待茶屋がありました。
箱根東坂の割石坂にもありましたが、接待茶屋とは、
旅人に無償で食事や飼葉を提供する施設です。
困難な箱根越えを支援するために設けられた施設ですが、公営ではなく、
寺院や商人が運営資金を出していました。
そのため、資金難で閉鎖されては別人による再開の繰り返しだったそうです。
やがて鉄道が開通し、自動車も普及して、接待茶屋はその使命を終えますが、
閉鎖は意外と遅く1970年まで続いていたそうです。

国道の向こうにある小さな屋根の下には、
末期の接待茶屋を支えた鈴木家の2人の胸像があります。
しかし、こちらから近付く事はできません。
恐らくそこへ続く道がどこかにあると思うのですが、わかりませんでした。
聞く所によると、この胸像は鈴木家の関係者が個人的に建てた物のようです。
史跡として整備されないのはそのためでしょうか。
なお、接待茶屋については三島市のウェブサイトに詳しい解説があります。

そして、この接待茶屋バス停のそばから再び細い山道に入ります。

06:20 | カテゴリー:東海道スタンプラリー

2009年1月12日

社長K氏の思惑

K氏は中小企業の経営者です。
誰もが知っている大企業H社の下請けをしています。
従業員は180人程ですが、
K氏はほぼ全員の顔と名前、性格を把握しています。

ある時K氏は、事業拡張と欠員補充のためアルバイトを募集しました。
採用した人たちにはまず3箇月程で終わる仕事を与えて様子を見ました。
多くの人はその後もK氏の会社に残り、やがて1年が経過しました。
アルバイトと言っても、8時間勤務で休日は年間120日余り。
これ以上アルバイト契約のままで雇い続けることはできません。

しかし、アルバイトの人たちを社員にしてしまうと、
例え契約社員でも、年金や保険など様々な出費が新たに必要です。
かと言って、長期間フルタイムで働き続ける人をパートにはできません。

そこでK氏は一策を講じ、アルバイトの人たちを名目上個人事業主にしました。
こうすれば、給与と交通費と健康診断だけで済みます。
賞与も必要ありません。
給与も「作業料」という名目で、振込手数料を「事業主」に負担させました。

そうやってアルバイトから個人事業主になった人たちの中に、
X君という男性がいました。
K氏とはちょうど親子くらいの年齢差がありました。
個人事業主になって1年、まだ当分K氏の会社で働き続けてくれそうなX君を、
K氏は別の部署へ異動させました。
今度の仕事は今までより複雑で、たまには深夜までの残業もありました。

それから1年近くが過ぎ、X君が突然退職したいと言ってきました。
理由を聞くと、このままK氏の会社に長くいても希望が持てないから
他の会社で働きたいと言います。
しかも、既に転職先は決まっていて、
先方の社長がX君の退職を待っているとまで言います。
さらに聞くと、もう随分前から、
休日にはその転職先の仕事をしていたのだとか。

X君は勤め先に無断で就職活動と副業をして、
転職の準備を勝手に進めてしまってから、突然退職したいと言い出しました。
こんなやり方は感心できません。

しかし、K氏は被害者でしょうか。
X君は個人事業主ですから、K氏の会社の社員ではありません。
就業時間外に何をしようと、いちいちK氏の許可を取る必要はありません。
長く使うつもりの従業員なのに、
経費をケチるために名前だけ個人事業主にした結果、
それを逆手に取られたのですからお互い様、どっちもどっちです。

X君の契約書は、契約期間が空欄になっていました。
X君がそれについて質問すると、契約期間は特に定めないが
基本的には毎年4月の年度初めに更改すると回答していました。
何かあったらいつでも解雇できるようにしてあったのでしょうか。
その結果、2月一杯という面倒なタイミングでX君の退職を認めることになり、
春の人事異動に先駆けて大急ぎでX君の代わりを探さねばなりませんでした。

今は、仕事に就けなくて困っている人がたくさんいます。
しかし若い世代に目を向けてみると、少子化で私学が経営難に陥っています。
近い将来、企業の人事にもその影響が及ぶことは必至です。
自社の社員ではないからと派遣労働者の使い捨てなどしていると、
仕事が、そして企業が労働者に使い捨てられる時代が
いつか来るかも知れません。

23:25 | カテゴリー:よしなしごと