« 2009年6月 | メイン | 2009年8月 »

2009年7月31日

【十三】富士のお山に原の白隠 前編

沼津市東間門から旧原町です。
原町は1968年に沼津市に編入されました。
そこから400m進むと西間門交差点があります。

西間門交差点
西間門交差点。画面左手前から右奥へ通じる道が旧東海道。
中央の道は旧国道1号の千本街道。奥が京都方面。

沼津城の手前まで歩いた県道380号、旧国道1号が、
今歩いている県道163号と斜めに交差して海側に回ります。
ここからの県道380号には千本街道という名前が付いています。
旧東海道は引き続き県道163号です。

西間門交差点から400m、八幡神社の所に傍示杭があります。

西の傍示杭
八幡神社にある西の傍示杭

この傍示杭は明治末期頃に折られ
「従是東」と書かれた上半分だけが残っています。
黄瀬川を渡った所に「従是西 沼津領」と書かれた傍示杭がありましたが、
材質や書体等がそれと同じで、同時期に作られた物と考えられています。
失われた下半分には恐らく「沼津領」と刻まれていたのでしょう。

八幡神社から約350mの所に沼津片浜郵便局があります。
ちょっと寄っていきましょう。

沼津片浜郵便局
沼津片浜郵便局

沼津片浜郵便局の風景印
沼津片浜郵便局の風景印

沼津片浜郵便局の風景印は「千本松原から望む駿河湾に富士山」です。
この局も含めて近隣の5つの郵便局で同じ図案を使用しています。
今回はかもめ~る(カーボンオフセットはがき)を使用しました。

沼津片浜郵便局から約1.3kmの所に松長一里塚跡碑があります。
民家の塀を少しえぐって設置されています。

松長一里塚跡碑
松長一里塚跡碑

日本橋から31里(121.7km)です。
現在、塚は残っておらず碑が建っているだけです。
石碑の側面に一里塚のイラストがあります。

松長一里塚跡碑のイラスト
松長一里塚跡碑のイラスト

松長一里塚跡から1.7km、原踏切で東海道本線を渡ります。

原踏切
原踏切

ここで右側から来た東海道本線が旧東海道を横切り、海側へ出ます。
踏切から300m弱、右手に神明宮があります。

神明宮
神明宮

そしてここが原宿の東木戸、即ち江戸方見附があった場所です。

原宿東木戸跡
原宿東木戸跡

解説が書かれた小さな柱以外何もありませんが、ここから原宿です。
原宿はもともと現在の県道380号(旧国道1号)付近にあり、
慶長年間(1596~1615年)に起きた高潮の被害により移転したと言われています。
東木戸跡から700m弱の所にこんなバス停がありました。

白隠前バス停
白隠前バス停

ここは白隠ゆかりの松蔭寺の前でした。

松蔭寺
松蔭寺

白隠慧鶴については沼津の手前、清水町の玉井寺の所で触れましたが、
1685年ここ原宿で生まれ、1700年にこの松蔭寺で出家しました。
1703年から諸国を巡りつつ修行を積み、1716年には原に戻り、
松蔭寺の住職になりました。

さて、500人に1人の名僧とまで言われた白隠ゆかりの松蔭寺ですが、
ちょうどお葬式の準備中なのでお参りは断念しました。
確か戸塚でも同じ事がありましたね。
そこから100m余り進むと白隠禅師誕生地の碑があります。

白隠禅師誕生地の碑
白隠禅師誕生地の碑

ここには白隠の母親、妙遵(みょうじゅん)の生家がありました。
妙遵が生まれた頃は味噌屋という旅籠だったそうです。
そばにある解説に
「のち父宗彝(そうい)が分家して沢瀉屋(おもだかや)を名乗った」
とあるので、妙遵と結婚した宗彝がこの旅籠を継ぎ、
その際に屋号を沢瀉屋に変えたということでしょう。
この奥に白隠の産湯に使った水を汲んだという井戸がありますが、
そこまで入れるとは知らなかったので素通りしてしまいました。

ここまでで原宿東木戸から西木戸までの6割程を進んだことになります。

17:59 | カテゴリー:東海道スタンプラリー