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2009年9月 6日

【十四】富士が見えればそれで吉原 其の一

富士市に入りました。

これより富士市
これより富士市

沼津宿を出た辺りから歩いてきた県道163号は
この先300mの東柏原交差点で県道380号(旧国道1号)に合流して終わります。
そこからさらに700m、東海道本線東田子の浦駅の先辺りに
間の宿柏原がありました。
往時を偲ぶ事ができる物は残っておらず、今は標柱が立つのみです。
そしてその先に立圓寺があります。

立圓寺
立圓寺

境内には大型船の錨が置かれています。
これはインドネシア船籍の貨物船「ゲラテック」の錨です。

ゲラテックの錨
ゲラテックの錨

清水港を出港したゲラテックは1979年10月19日、台風20号に遭遇し、
ここ立圓寺の南方にある柏原海岸で座礁しました。
錨の脇にはこの時亡くなった船員2名の名を刻んだ慰霊碑もあります。
そばにある解説によれば、近隣はもちろん
東京、愛知、山梨などからも集まった野次馬の数は休日には5万人にも上り、
売店が十数軒出店する程の勘違いっぷりだったようです。

立圓寺から350m程行った広沼橋の下を昭和放水路が流れています。

昭和放水路
昭和放水路

原宿の増田平四郎は、愛鷹山の南に広がる湿地帯、浮島沼の干拓を計画しました。
しかし工事の許可はなかなか下りず、代官所へ願い出る事12回、
勘定奉行に籠訴する事6回にしてようやく認められました。
実に発案から着工まで27年。工事は明治維新を跨ぎ、
明治2年(1869年)の春に排水路が完成しました。
全長505m、幅7mの大きな掘り割りを人々はスイホシ(水干し)と呼びましたが、
完成したその年の8月、高波で完全に破壊されました。
しかし、平四郎の干拓計画は後の世の人々に受け継がれ、
スイホシと同じ場所に昭和放水路が建設されました。
広沼橋を渡った所に増田平四郎の像があります。

増田平四郎の像
増田平四郎の像

ちなみにこの像の所にある解説板では
スイホシの着工を「1867年(慶応元年)」としています。
新暦の1867年は旧暦の慶応2年11月26日から慶応3年12月6日まで、
旧暦の慶応元年は新暦の1865年1月27日から1866年2月14日までです。
よって「1867年(慶応元年)」と書いてあるのは明らかに間違いなのですが、
ネット上で検索するとこの通りに書いてあるサイトが多いようです。
1867年なのか慶應元年なのか、実際はどちらなのでしょう。

また、ここは日本橋から33里(129.6km)の一里塚があった場所でもあります。
現在塚の痕跡は無く、標柱が立っているだけです。
ちなみに、この標柱では33里を129.69kmとしています。

一里塚の解説
一里塚の解説

尺貫法とメートル法の換算は
1891年公布の度量衡法で1尺=(10/33)mと定められ、
ここから計算すると1里(12960尺)は3.92727‥‥km、
33里はちょうど129.6kmになります。
1里はkmに換算すると循環小数になるため一般には3.93kmとされますから、
これを単純に33倍して129.69kmと書いたのでしょう。

さて、重箱の隅をつつくのはこのくらいにして先へ進みましょう。
広沼橋からそのまま県道380号を1km進むと檜交差点です。

檜交差点
檜交差点

ここは、ここまで歩いてきた県道380号と県道170号との分岐点で、
旧東海道は県道170号の方へ進みます。
静岡県道170号田子浦港大野線は東海道本線吉原駅近くの田子浦港へ続く道で、
田子浦港付近の一部を除く大半が旧東海道に含まれています。
檜交差点では直進する380号から左へ別れる170号が支線のように見えますが、
380号はここから内陸方向へ大きく進路を変えており、
地図で見ても元の道は170号にまっすぐ続いていた事が伺えます。
歩道はこの交差点の外側を左へぐるりと回るように続いており、
「旧東海道順路」と書かれた標識が立てられています。

檜交差点を過ぎると日本製紙富士工場の高い煙突が見えてきます。

日本製紙富士工場の煙突が見える
日本製紙富士工場の煙突が見える

富士市は日本屈指の「製紙の街」です。
富士市商工農林部工業振興課がまとめた
「富士市の工業(平成21年4月)」という資料によれば、
2007年に市内で生産された紙・板紙の総生産量は3,617,417トンで、
全国生産量の11.6%を占めています。
(板紙とはボール紙などの厚紙のことです)
全国生産量に占めるシェアが目立って多いのはトイレットペーパーで、
31.5%が富士市で作られています。
ただし、近年は不況の煽りで業界の再編が進んでいます。
まあ、その辺はどこの業界でも同じですね。

富士市周辺ではかなり古い時代から紙が作られており、
平安時代の延喜式に「駿河より紙を貢ぐ」という記述があるそうです。
製紙には大量の水が必要です。現代の製紙工場では、紙1トンを生産するのに
50トンから500トンもの水を使いますが、
富士市周辺は富士山の伏流水などの水資源に恵まれています。
江戸時代には、この周辺に自生していたミツマタが原料に使われるようになり、
1889年(明治22年)には鉄道が開通して大量輸送が可能になりました。
市街地化が進んでいないため工場用地の確保が比較的容易で、
大量消費地である大都市へもそんなに遠くないという地の利が生かされ、
近代以降も製紙はこの地の重要な産業であり続けました。

製紙工場の煙突が近付いてくると、臭いも近付いてきます。
高い煙突から白い煙がもくもくと吐き出されているのを見ると、
今日富士山が見えないのはこいつらのせいじゃないかと思えてきます。
あの白いのは湯気ですから、きっと雲の生成に加担していることでしょう。

時々あの白いのが有害物質だと思っている人がいますが、違います。
本当に有害な煙があんなにたくさん出ていたら大変ですよ。
(と言っても湯気に混じって少しは出ているみたいですが)

少し行くと「石屋前」というバス停がありました。

石屋前バス停
石屋前バス停

確かに石屋さんの前にあります。
後で調べたら、この辺りの町名である大野新田は
1つ手前の停留所の名前に使われていました。
停留所名がネタ切れだったようです。

さらに進み、今井という地域に入ります。
この辺りから東海道本線吉原駅手前までが初期の吉原宿があった場所で、
元吉原と呼ばれています。

この辺りが元吉原
この辺りが元吉原

吉原宿は徳川家康による五街道整備(1601年)以前からあった宿場ですが、
1639年に津波で大きな被害を受け、内陸部に移転しました。
これが中吉原ですが、ここもまた1680年に津波の被害を受け、
さらに内陸の、今回目指す吉原宿へ再度移転しました。

富士山をモチーフにした柵がありました。

富士山をモチーフにした柵
富士山をモチーフにした柵

県道170号に入った檜交差点から1.8kmの所で道が二手に分かれます。

右へ行くと踏切
右へ行くと踏切

地図を見ると、元の東海道はここを直進し、
その先で現在の東海道本線を斜めに横切るように続いていたようです。
今は線路に分断されているので、ここを右に行って鈴川踏切を渡ります。

鈴川踏切
鈴川踏切

踏切の所で線路を見たら、日本製紙富士工場の前に貨車が並んでいました。

製紙工場前の貨車編成
製紙工場前の貨車編成

この貨車はワム80000形です。
国鉄時代の1960年から1981年までに、実に26000両以上が製造されました。
箱形車体の側面が総開きの引き戸になっており、
フォークリフトで積み荷をパレットごと積み込めるのが特徴です。
車体が青いものは車輪の軸受けがローラーベアリングに改造されています。
昔は国鉄線のどこでも見られた貨車ですが、近年貨物列車はコンテナが多くなり、
今は紙輸送列車に残る程度です。
吉原駅から出るワム80000形は埼玉県の新座貨物ターミナルまで行きます。

吉原駅の敷地に沿って踏切から道なりに360m進むと吉原駅北口交差点です。

右奥の信号の所が吉原駅北口交差点
右奥の信号の所が吉原駅北口交差点

ここを左へ曲がると吉原駅です。旧東海道は直進です。

2009年9月 6日 09:06 | カテゴリー:東海道スタンプラリー