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2009年9月10日

【十四】富士が見えればそれで吉原 其の五

旧東海道は県道396号に右から合流したと思ったら、すぐ左折して離れます。

旧東海道はここを左折
旧東海道はここを左折

ここから狭い道になります。

県道396号から離れた旧東海道
県道396号から離れた旧東海道

この先に江戸から35里(137.5km)の一里塚跡があるのですが見落としました。

県道から細い道に入って450m、旧東海道は富士本町商店街と交差します。

富士本町商店街
富士本町商店街。画面奥が富士駅方面。
画面左が吉原宿方面、右がこれから向かう蒲原方面。

この交差点を左折し、500m程行くと富士駅です。
隣の吉原駅は1889年(明治22年)、
国府津-静岡間の鉄道(現・東海道本線)開通と同時の開業でしたが、
富士駅は20年遅れて1909年(明治42年)に開業しました。
当時この辺りの地名は富士郡加島村で、
地元からは加島駅とするよう求められていたようですが、
開業時から富士駅とされました。
加島村は1929年に町制を施行して富士町になり、
さらに数回の合併を経て現在の富士市の一部になっています。
富士駅も吉原駅同様貨物列車の発着があり、発送品の半分は紙製品です。

商店街から200m、金正寺の裏の墓地越しに富士山が見えました。
まだまだ富士山は近くに見えます。

金正寺の裏から見る富士山
金正寺の裏から見る富士山

金正寺の墓地の隣はフジホワイトホテルです。
ここは静岡県有数の大地主、松永家の邸宅跡です。

フジホワイトホテル
フジホワイトホテル

江戸時代末期には、周辺六箇村の年貢をとりまとめる業務を
領主に代わってこの松永家が行っていました。
ここは間の宿岩淵と吉原宿の中間に位置し、
明治元年の明治天皇東幸の際には松永邸が小休所として使われました。
当時の建物の一部は富士市立博物館で保存されています。
また、このすぐ先には高札場跡があり、
「札の辻橋」という橋の名に今も名残を留めています。

フジホワイトホテルから800mの所で旧東海道は県道396号に合流します。

県道396号に合流
県道396号に合流

すぐ先に見えるガードは身延線です。

身延線のガード
身延線のガード

身延線は富士駅から山梨県の甲府駅へ延びるJR東海の路線です。
もともとは富士身延鉄道という私鉄の路線で、
1913年に富士-大宮町(現・富士宮)間が開通。
その後順次延伸され、1928年に甲府までの全線が開通しました。
1938年に鉄道省(後の国鉄)に借り上げられ、
1941年には買収されて鉄道省の路線になりました。

以前は身延線の列車は富士駅から東向きに出発し、
ここよりもっと手前、富士郵便局の近くで県道396号と交差していました。
それが1969年のルート変更で西向きに出発するように変わり、
現在の位置で県道396号と交差するように変わりました。
その理由は、東京方面(即ち東側)から来た創価学会のチャーター列車が
向きを変えずにそのまま身延線に入り富士宮まで行けるようにするためだった、
という説があるそうですが、真偽の程は定かではありません。
身延線は当時から静岡方面(西側)との直通列車が毎日走っていたのですから、
東側から来る臨時列車に合わせて線路を直すのも不自然な気がします。

身延線が県道396号を跨ぐ所には柚木駅があります。
柚木駅の所から北の方を見たら、また富士山が見えました。

柚木駅の所から見た富士山
柚木駅の所から見た富士山

柚木駅から150m、橋下(はしした)交差点で県道176号が右へ分岐します。
さらに150m先の交差点で細い道が右へ分岐します。
この細い道が旧東海道です。

旧東海道分岐点
旧東海道分岐点

ここに常夜灯と道標があります。

常夜灯と道標
常夜灯と道標

沼津宿の手前、清水町に常夜灯があり、
その時「この先しばらく同様の常夜灯が数多く見られる」と言いました。
面倒なのでいちいち話題にしなかったのですが、
覚えているだけでも富士市に入ってこれが4つ目くらいです。
残念なことに火袋の部分が失われており、灯籠の用を為しません。
(もっとも用を為しても実際に使うことがあるかはわかりませんが)
竿の部分には「秋葉山」と刻まれていますが、
富士市内で見た物はだいたいそう書かれているようです。
また、「慶應元年 五月吉日」とも書かれています。
慶應元年と言えば明治維新の3年前です。
既に徒歩による旅行も末期のように感じられますが、
この地に鉄道が来るのは24年後の明治22年(1889年)です。
明治時代の前半はまだまだ近世から近代への移行期ですね。

隣の道標には「左東海道」と刻まれています。
ただし、この道標は道路整備の際に本来の場所からここに移動されており、
実際は右の道が旧東海道です。
(元はどこにあったのでしょう)

ここから暫くは特に何もない道です。
県道から離れて車の通りも少なく、のんびりした気分で歩けます。

県道から離れてのどかな道
県道から離れてのどかな道

常夜灯と道標があった場所から400m余り、また県道396号に戻ります。

県道396号に戻る
県道396号に戻る

横断歩道に取り付けられた標識に静岡36km、富士川3kmとあります。

県道を450mくらい進むと明治天皇御小休所址の碑があります。

明治天皇御小休所址碑
明治天皇御小休所址碑

解説によると、明治天皇は明治11年11月6日、
東海北陸巡幸の際にここで休憩したそうです。
当日に備えて様々な準備が行われ、
「富士川橋梁の架替」も行われたと記されています。
明治に入ると富士川にも仮橋が架けられますが、
富士川は東海道随一の急流であり、雨期には流されてしまい、
従来からの渡船と併用されていました。
長持ちしない仮の橋なら真っ新な橋でお迎えしようということでしょう。

100m先にはもう富士川橋が見えていますが、
明治天皇の石碑のすぐ先に左へ入る細い道があります。
私が持ち歩いているガイドブックの地図では、
この道の先にかつての船着き場があったように描かれています。
河川敷へ下りられそうなのでちょっと行ってみましょう。

富士川橋
富士川橋

富士川橋が見えます。この写真では東側1連が見えていませんが、
下路曲弦プラットトラス6連の堂々たる鉄橋です。
それまでの仮橋に替わって1924年に架けられました。
西側2連の桁は東側4連に比べ幅が広くなっています。
元は同じ幅だったのですが、この橋を西へ渡った先がすぐ交差点なので、
桁の幅を広くして橋の上に右折レーンを設けたのだそうです。
この幅が広い部分の桁は1988年に架け替えられた物です。
戦後のトラス橋は桁の上部が路面と平行の平行弦トラスが多いのですが、
富士川橋の架け替え部分は大正時代の部分に合わせたのか曲弦トラスです。

さて、ガイドブックの地図を信じるならこの辺りに渡船場があったことになります。

富士川橋の袂、水神ノ森にある神社の解説板によれば、富士川東岸の渡船場は
上船居、中船居、下船居の3箇所を川瀬の状況により使い分けていたそうです。
3つの渡船場は「松岡地内の一番出しから川下二十町の間」にあり、
それぞれの渡船場へは上、中、下の各往還が通じていたといいます。
下船居は水神ノ森付近にあったそうですから、
今歩いて来た道は下往還ということになります。
ガイドブックの地図は一応間違っていないみたいですが、
上往還と中往還については記述がありません。

また「松岡地内の一番出し」がどこなのか不明ですが、20町は約2.2kmです。
後でこの付近の地図を見てみると、富士川橋から上流へ1kmと2kmの辺りへ
旧東海道からそれぞれ道筋が伸びているように見えます。
ただし、これが中往還と上往還なのかは未確認です。

それでは富士川橋を渡りましょう。

富士川橋東詰
富士川橋東詰

道の左側にある大きな柱は、1924年の富士川橋竣工時に立てられていた物です。
1988年に西側2連を架け替えた際に低い柱に替えられたようです。
上流側の脇に独立した歩道があるので自動車の通行が多くても安心して渡れます。

富士川橋からも富士山が見えました。

富士川橋から見た富士山
富士川橋から見た富士山

富士川の西は以前は庵原郡富士川町でしたが、
2008年11月1日に富士市に編入されました。
もともとは近年まで庵原郡に残っていた蒲原町、由比町との間で
合併交渉が行われていたのですが、
富士地区との繋がりが深い富士川町は富士市への編入を選びました。
余談ですが、山梨県南巨摩郡増穂町と鰍沢町が
2010年3月に合併して富士川町になるそうです。

次の宿場は蒲原ですが、その前に間の宿岩淵を通ります。

2009年9月10日 07:26 | カテゴリー:東海道スタンプラリー