金沢市内に戻って夕方まで観光です。

長町武家屋敷跡

長町武家屋敷跡の街並み

 金沢城の西にある長町武家屋敷跡は、加賀藩の上・中級藩士の居住地だった場所です。現在も住宅地で、多くの建物は建て替えられていますが、土塀や石畳と大野庄用水で江戸時代の雰囲気を今に伝えています。

 
薦が掛けられた長町武家屋敷跡の土塀

 冬なので武家屋敷跡の土塀にはわらで作られた薦(こも)が掛けられています。土塀に雪が付くと溶ける際に表面の土が剥がれたり、染み込んだ水分が凍って土塀が割れたりします。それを防ぐため、冬は土塀を薦で覆って雪が直接付かないようにします。薦は12月に掛けられ、3月に外されているようです。私が訪れたのは1月でした。

 

旧加賀藩士高田家跡

旧加賀藩士高田家跡

 加賀藩の中級武士、高田家の邸宅跡は長屋門が復元され、回遊式庭園と共に一般公開されています。
 高田家は平士と呼ばれる階級で、禄高は550石だったそうです。元は443坪あった敷地のうち270坪が残っています。

 
高田家の回遊式庭園

 高田家の回遊式庭園です。木の枝が雪の重みで折れないよう雪吊りが行われています。

 
高田家の長屋門

 高田家の長屋門です。長屋門は奉公人の部屋や厩と一体化された門で、中級以上の武士の屋敷に設置が認められていました。
 この写真で中央の部分が出入り口、手前が厩と納屋で奥が仲間(ちゅうげん)部屋です。仲間は武家で働く最下級の奉公人です。

 
高田家の長屋門

 長屋門の出入り口部分です。

 

武家屋敷跡 野村家

武家屋敷跡 野村家

 野村家は禄高1200石の藩士で、1000坪以上の屋敷を長町に構えていました。明治以降この屋敷の住人は何度か変わりましたが、現在の建物は加賀大聖寺藩の商人久保彦兵衛が豪邸の一部を移築した物です。従って、現在ある家屋は本来の武家屋敷ではありませんが、土塀や庭木の一部などは野村家時代のものが残っているそうです。

 
野村家の座敷

 野村家の座敷です。奥の一段高い部屋が上段の間、手前が謁見の間です。
 上段の間に置かれた解説文が「金に糸目をつけない‥‥」で始まっています。この言葉はよく耳にしますが、実行するとどうなるのか、その結果を目にする機会は少ないと思います。

 
野村家の庭

 野村家の庭です。池には巨大な鯉が泳いでいました。
 このほか2階の茶室や、野村家に伝わる刀剣、書状等の資料も公開されています

 

尾山神社

尾山神社の鳥居と神門

 初代加賀藩主前田利家を主祭神とする尾山神社です。高い塔にステンドグラスをはめた神門が特徴的です。このステンドグラスは夜間は内側から照らされます。また現在は神門全体のライトアップも行われています。

 前田家は外様大名という立場上、利家の霊を公然と祀る事は憚られました。そこで、利家が守護神とした物部八幡宮と榊葉神明宮を遷座する名目で金沢城の北東(鬼門)に卯辰八幡宮を建立し、そこに利家も合祀するという形を取っていました。

 
尾山神社拝殿

 明治6年、金沢城出丸の金谷御殿跡に改めて利家を主祭神とする神社として建立されたのがこの尾山神社です。
 なお、卯辰八幡宮は現在も宇多須神社として残っています。

 尾山神社の拝殿です。旧金谷御殿の格天井と欄間が移築されているそうです。

 

 この後、金沢城の北、浅野川の畔にある主計町(かずえまち)茶屋街に行ってみました。歩いて向かううちに日は落ちていました。少しはお茶屋の建物から明かりが漏れているのを期待したのですが、ほとんど真っ暗でした。ひょっとして不景気だからでしょうか。

ひがし茶屋街

ひがし茶屋街

 ひがし茶屋街は主計町茶屋街から見て浅野川の対岸にあります。近隣に点在していたお茶屋を集めて文政3年(1820年)に成立しました。
 私がここに着いたのは午後6時少し前で、本来のお茶屋の営業が始まる頃でしたが、昼間は内部を公開している所もあります。写真右の建物は土産物店で、この時間でも営業しています。

 

 これで金沢市内の観光は終わりです。帰りの列車に乗るためバスで金沢駅へ向かいます。


その1 東京から高山へ

その2 櫻山八幡宮 その3 古い街並み その4 市政記念館・高山陣屋

その5 高山から金沢へ

その6 にし茶屋街ほか その7 鶴来 その8 長町武家屋敷跡・尾山神社・ひがし茶屋街

その9 金沢から東京へ


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